いじめ対策、学校に求められることは 当事者の訴えから‐渡辺敦司‐
冬休みに入り、ほっとしている子どもも少なくないかもしれません。冬休み明けは、夏休み明けや春休み明けほどではないにせよ、子どもの自殺が増える時期(外部のPDFにリンク)でもあります。中でも、いじめ自殺は深刻な問題です。政府の教育再生実行会議の第1次提言に基づき「いじめ防止対策推進法」が制定され、各地や学校で対策が進んでいるはずなのに、その後も自殺はやみません。
先頃行われた文部科学省の「いじめ防止対策協議会」の会合で、愛知県西尾市の大河内祥晴さんが意見を述べました。祥晴さんは1994(平成6)年11月末、中学2年生だった次男の清輝君を、いじめ自殺で亡くしました。事件は大きく報道され、2回目の「社会問題化」(国立教育政策研究所の滝充・総括研究官)のきっかけともなりました。祥晴さんはその後、いじめに悩む全国の子どもたちの相談に乗ったり、いじめ問題について講演したりするなどの活動を続けています。
学校が何をもって「いじめ」と判断するかに大きな影響を与えてきたのが、文科省調査の定義(外部のPDFにリンク)です。1994(平成6)年当時は「自分より弱い者に対して一方的に」「身体的・心理的な攻撃を継続的に加え」ていることを「学校としてその事実を確認しているもの」などとしていました。単に調査上の定義にすぎないのですが、実際の指導でも「いじめ」かどうかの判断に使われていた実態が、教育界全体にあったことは否定できません。そのため文科省は、いじめが社会問題化するたびに定義を変えてきました。現在は「対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」などとされています。
しかし祥晴さんは、今も「苦痛の受け止め方によって解釈が異なり、(調査上の判断基準とされている)児童生徒の立場に立つという意図が理解されていない」と疑問を投げ掛けました。子どもが訴えても、教師の裁量次第では「いじめ」と認知されません。それに「受け止め方によって違う」「今の子どもは我慢が足りない」といった社会の認識が加わって、訴えをためらわせる一因になっているというのです。
学校の組織的な対応も不可欠です。清輝君の通っていた学校は当時、「校長の席はあるが、実質的な運営責任者は教頭と生徒指導主事」だったといいます。これには時代的・地域的な背景もありましたが、「事件後の横柄な対応」は「(市教委の担当課長から異動した)新任校長により一変した」と祥晴さんは振り返ります。
そんな祥晴さんは、清輝君の母校の取り組みに希望を見いだします。同級生が立ち上げた生徒の自主活動が今も継続し、定期的にクラスの様子や気になる子についての情報交換が行われるなど「仲間に嫌な思いをさせないように、自分も嫌な思いをさせないように、みなが声を上げてくれている」といいます。
いじめ対策、学力対策と「対策」ばかりに追われていては、学校はますます忙しくなり、肝心の子どもの姿さえ見えなくなる皮肉な結果さえ招きかねません。学力向上も、クラスの良好な人間関係があってこそです。3学期は学校にとって1年のうちでも忙しい時期ですが、学校は子どもの成長・発達を促す場であるという原点を常に忘れないでいてほしいものです。