再び学校選びの観点について 宗教立別 - 終章「宗教立?」[中学受験合格言コラム]
一見、宗教立に見えない宗教立の学校のなかで他に挙げられるのは、聖徳太子の徳目を掲げるところだろうか。東京都武蔵野市にある聖徳学園や、千葉県松戸市や茨城県取手市にある聖徳大学附属などの「聖徳」の名を関したところは聖徳太子の説く徳目即ち、仏教をバックボーンにしている。これも教団立でなく聖徳太子という仏教信徒を奉じているので仏教色が淡く感じられる。太子の「和をもって尊しとなす」は余りに広く知れわたっている。仏教と言われてもそのように受け取る人は少ないかもしれない。
さて、そろそろ宗教立の学校についてまとめに入りたいのだが、この稿の「宗教立?」とクエスチョンが付く宗教立の在り方のほうが、むしろ多くの私立学校の在り方であることに気付かれるだろう。つまり宗教の体系的な考え方を教えるというのではなく徳目や倫理として学ばせるというやり方だ。
一方、宗派やその教団の設立にかかるところでも、教師に信徒がいなかったり、いても少なかったりすることがむしろ通例で、象徴的な存在としての牧師、神父、僧侶、信徒代表などが機会あるごとに教えを説くという程度である。
つまり学校の構えのなかに信心が形だけのものになりやすい状況があり、生徒のほうもそうした信仰を期待して入学してきているわけではないという現在の入試制度のしからしめる状況があるので、その双方が相俟(あいま)って、学校と宗教がかつてなく疎遠になっているのが今日の私立の現状だ。
しかし、世界観の育成は中等教育の最も中核にあるもので、切っても切れないものだから、公立校のように普通市民教育をやりますと言っているだけでは私立学校のユニークネス(独自性)は発揮できないし、そもそも公立校でない必要が理解されないだろう。
ヨーロッパでは学校と宗教は切り離せないので、たとえばオランダで公立校が新教なので旧教の私立校を選ぶ自由を認めた、という経緯があるように国民のユニークネス(とりわけ信仰の)を保障するのが私立学校である。
我が国の場合にも、明治のころと先の大戦で私学に厳しい統制があり、国家権力との緊張関係が生じた。戦後はむしろ「私学」のなかで、儒教も仏教も神道もキリスト教も、濃さ淡さ・強さ弱さはあれ、独自の信仰や思想信条の灯を世代をへて、ともし続けている重い事実がある。いわば私学は生きた文化財なのだ。
さて、そろそろ宗教立の学校についてまとめに入りたいのだが、この稿の「宗教立?」とクエスチョンが付く宗教立の在り方のほうが、むしろ多くの私立学校の在り方であることに気付かれるだろう。つまり宗教の体系的な考え方を教えるというのではなく徳目や倫理として学ばせるというやり方だ。
一方、宗派やその教団の設立にかかるところでも、教師に信徒がいなかったり、いても少なかったりすることがむしろ通例で、象徴的な存在としての牧師、神父、僧侶、信徒代表などが機会あるごとに教えを説くという程度である。
つまり学校の構えのなかに信心が形だけのものになりやすい状況があり、生徒のほうもそうした信仰を期待して入学してきているわけではないという現在の入試制度のしからしめる状況があるので、その双方が相俟(あいま)って、学校と宗教がかつてなく疎遠になっているのが今日の私立の現状だ。
しかし、世界観の育成は中等教育の最も中核にあるもので、切っても切れないものだから、公立校のように普通市民教育をやりますと言っているだけでは私立学校のユニークネス(独自性)は発揮できないし、そもそも公立校でない必要が理解されないだろう。
ヨーロッパでは学校と宗教は切り離せないので、たとえばオランダで公立校が新教なので旧教の私立校を選ぶ自由を認めた、という経緯があるように国民のユニークネス(とりわけ信仰の)を保障するのが私立学校である。
我が国の場合にも、明治のころと先の大戦で私学に厳しい統制があり、国家権力との緊張関係が生じた。戦後はむしろ「私学」のなかで、儒教も仏教も神道もキリスト教も、濃さ淡さ・強さ弱さはあれ、独自の信仰や思想信条の灯を世代をへて、ともし続けている重い事実がある。いわば私学は生きた文化財なのだ。