読解力とは「耳をすます」こと?[中学受験]

私の担当で、物語を読みながら幅広い読解力を養うことを目的にしている小学3年生のクラスがある。
先日、そのクラスである本の前のほうを読んで、その後どのような展開が想像できるかをみんなで考えるという授業を行った。

自分のアイディアと物語の結末を比べながら本を読む

物語の展開を途中から引継ぎ、自分なりの結末を考えるという作業を、生徒はかなり興味をもって行う(話を創るということで「創話」と呼んでいる)。
具体的に言うと、「ある少年Aが不思議な少年と出会うのだが、その不思議な少年の正体は何か?」ということを想像するのであるが、実にさまざまなアイデアが出てくる。一番多かったのは、その不思議な少年は「昔その場所で亡くなった幽霊(妖怪?)であり、少年Aと遊びたくて出てきた」というもの。
そしてそれに賛同する生徒も多かったと記憶する。
もう一つ面白いアイデアとしては、「その不思議な少年は、過去からタイムスリップをして少年に出会った」というものであった。
こちらのほうはあまり賛同者は多くなかったが、そのアイデアを述べた生徒が、なぜそう感じたのかを本文のいくつかの箇所を「根拠」に挙げながら述べたことが非常に印象深かった。

結論から言えば、後者の生徒のアイデアこそが作者の書いた結末であり、その生徒があげた根拠がいわゆる作者がつくった「伏線」である。
生徒たちは自分たちの考えたアイデアと物語の結末を比べながら本を読むことになるので、ますます興味をもって本を読み進めると思う。

読解力とは微妙な書き方や言い回しに耳をすませる力

さて「お話を創る」とか「想像力を養う」という点からは、上記の二つのアイデアはどちらが優れているということはないと思う。
しかし読解力という意味では、作者がつくった「伏線」に反応した後者の生徒のほうが優れていると言えると思う。
こう考えると読解力とは、微妙な書き方や言い回しにも「耳をすます」ことができる力とも考えられる。
しかしこれが試験問題となり「国語は理論である」とか「答えを一つにするために仕組みがある」という話になると、どうも「技巧に走りすぎている」とか、「この問題でどんな国語力を試そうとしているのか?」などと違和感を覚える場合がある。
おそらくそれは問題作成者の「力」(それこそ国語力)によるのではないかと思える。つまり「技巧に走りすぎている」と感じさせるような設問は、わざとらしい下手な問いなのではないか。
たとえば、作り話でありながら深い感動を与える物語は、読者に「自然な感じ」や「違和感のなさ」を与える。このことを思えば、優れた「問い」とはやはり「仕組み」をもちながらも「自然な感じ」がするものなのであろう。
「自然で違和感のない問い」を作るということは、私自身を含む問題作成者がもつべき心がけなのかもしれない。

プロフィール


小泉浩明

桐朋中学・高校、慶応大学卒。米国にてMBA取得後、予備校や塾を開校。現在は平山入試研究所を設立、教材開発など教務研究に専念。著作に「まとめ これだけ!国語(森上教育研究所スキル研究会)」などがある。

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