「不登校したら、楽しんだらいい」と言われた言葉が指針に。フリースクールに通ってから「不登校新聞」編集長になるまでのこと[不登校との付き合い方(24)]

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「不登校新聞」石井志昂さんご自身に、かつて不登校になった経緯や今の人生を歩き始めるまでをお話しいただくことで、「学校」という場について考えます。前編では、石井さん自身が不登校になるまでを話していただきました。この後編では、石井さんが不登校を経て自分の人生を歩みだすまでを振り返ることで、「不登校」について考え直していきます。

この記事のポイント

不登校で受けた傷は、プロセスに沿って回復していく

不登校になってから、心配して連絡してくれた元同級生もいましたが、学校からの連絡は一切ありませんでした。だから、学校に戻ってこいという「登校圧力」はなかったし、あまり干渉されることはなかったです。

以前の記事「不登校で子どもが負った心の傷 どんなプロセスで回復していく?」でもお伝えしたように、不登校からの回復は、身体症状が出る⇒感情を噴出させる⇒体験を言語化する⇒支援を必要としなくなる、という一定のプロセスをたどることが多くあります。私の場合も同様でした。

身体症状に関しては、不登校になる直前に強く出ていました。学校へ行こうとすると目の前が揺れて、まっすぐな坂道が曲がりくねって見えるようになり、希死念慮もありました。不登校になってすぐに次の段階に移り、学校への怒りや、将来どうなってしまうんだろうという不安も含めて、感情が爆発。この時期は半年以上続きました。

そして、フリースクールに通い、たくさん話を聞いてもらうことで言語化の時期に入り、心が救われていったのです。

フリースクールについては、先に知識があったことで救われた

フリースクールについては、誰かに教えられたのではなく、自分で本か何かを読んで知ってはいたんですね。それは、学校に行かない子たちが集まる場があり、それがフリースクールという名称だと知っているという程度でした。それだけでも、どうしようもない不安の中にいたときに、「そこへ行けばいいんだ」と、気持ちを切り替えることはできました。

これは、今の私が不登校新聞を作っている原点でもあります。こうした情報を、とっかかりだけでも知っているだけで、気持ちのありようが違ってくるということ。もし、フリースクールの名称も知らず、寄るすべが何もないままだったら、私の人生はまた違っていたと思うんです。

気持ちが救われた、フリースクールでの3つの経験

フリースクールに通うようになり、スタッフにたくさん話を聞いてもらうという経験があって、不登校になってから3~4年かけて気持ちの整理をつけてきました。

私の場合、フリースクールでの言語化の時期が長かったのですが、次の3つのことに救われました。

①私の苦しい気持ちを受け止めてくれる大人たちがいたこと

今までの学校や塾の先生とは違い、共感的な態度で受け止めてくれる大人たちがいた、ということが支えになりました。とにかくひたすら、スタッフが私の話を聞いてくれたのです。

②年上の先輩、ロールモデルを知ったこと

学校へ行かなくてもなんとかやっていけるんだ、という少し先のロールモデルを目の当たりにできたことは、言葉で理解する以上に大きな力をもっていました。不登校だと強い孤立感がありますが、「こういう人がいるんだ」と知って、安心感を得ました。

③無理に学校に戻らなくていいんだと心の底から思えたこと

これは、どちらかというとネガティブな話となります。同じフリースクールの生徒で、学校だけにとらわれて生きていた人がいました。彼はいつも、「明日から学校へ行くんだ」、あるいは「学校は行かないけど、バイトするんだ」と言っていました。やるんだ、やるんだと言っては自分を責めて、結局何もできない。フリースクールで勉強もしないし、楽しむこともしない。彼は学校に行っていない自分を否定しているから、同じように学校へ行っていない私たちのことも否定する。だから友だちもできません。

おそらく、彼ではなく親が学校に囚われていたのだと思います。「そんなところは早くやめて学校へ行け」と親から言われ続けて、彼は自分のことを否定していたのでしょう。ある日突然、彼はフリースクールにも来なくなってしまいました。

彼を見ていて、「学校に囚われていると、ほんとうの自分の人生を生きられなくなるんだ」と痛感しました。

フリースクールという理想的な環境に身を置いて救われたという経験と同時に、フリースクールにいても苦しんでいる人が隣にいたという経験から学んでしまった、ということになります。

この3つのことがあって、だんだんと不登校という苦しさから抜けていきました。

疑問を疑問として受け止めてくれる、普通の社会にふれることが救いに

フリースクールで苦しさから抜けていくのと同時進行で「不登校新聞」に出会い、記者となりました。活動の場ができたことによって、前向きなエネルギーをためていくことができたのです。

「不登校新聞」の記者として、様々な大人たちに取材をしたとき、こちらが思っていることについて疑問をぶつけると答えが返ってくる、という経験をしました。学校では、「校則がおかしい」といえば、「そんなこと言っているおまえがおかしい」と、頭ごなしで否定されていたのが、社会の中では疑問は疑問として受け止められ、共感されたり、きちんと向き合って答えられたりする、疑問に感じてもよかったんだということを知りました。

取材する中で、糸井重里さんや横尾忠則さんのような文化人の方々が、「学校へは行かなくても大丈夫」といったポジティブなことばで不登校について語ってくれました。特に糸井さんが言ってくださった「不登校したら、楽しんだらいい」という言葉は、私の指針となりました。

不登校については暗い話が多いのはしかたのないことだけれど、当事者は落ち込んでいるばかりではありません。登校するのは厳しかったよねとか、リスカしちゃったよとか、日常をサバイブしながら、笑っていることもある。そういうことは大事だと思っていたときに、糸井さんから「不登校の日常を楽しむ」という指針を与えてもらったのでした。

不登校は、今、ネガティブな捉え方をされるばかりではなくなりました。それでも、不登校で苦しんでいる人たちがたくさんいます。かつての自分がそうだったように、今苦しい人たちが、少しでも前を向くことができるようにと、私は「不登校新聞」を作り続けています。

まとめ & 実践 TIPS

不登校になってから、心の回復が始まり、フリースクールに通った石井さん。フリースクールでは、話を聞いてくれる大人がいたこと、ロールモデルがいたこと、「学校にとらわれていたらダメだ」ということ、この3つの点に気づいてよかった、と話します。自分の経験から少しでも不登校で苦しむ人への情報発信をという思いが、「不登校新聞」の編集長としての原動力となっているのだそうです。

プロフィール


石井志昂

『不登校新聞』編集長。1982年生まれ。中学校受験を機に学校生活があわなくなり、教員、校則、いじめなどにより、中学2年生から不登校。17歳から不登校新聞社の子ども若者編集部として活動。不登校新聞のスタッフとして創刊号からかかわり、2006年に編集長に就任。現在までに不登校や引きこもりの当事者、親、識者など、400名以上の取材を行っている。

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