「不登校新聞」石井志昂編集長が経験した、壮絶にして実は普遍的かもしれない「私が不登校になった理由」[不登校との付き合い方(23)]

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不登校について語ることは、これまで後ろ暗いこと・つらいこととされてきましたが、このコロナ禍によって、少しずつトーンの違う言葉で語られるようになってきました。その違いは何なのでしょうか。「不登校新聞」石井志昂さんご自身に、かつて不登校になった経緯や今の人生を歩き始めるまでをお話しいただくことで、学校という場について考えていきます。前編は、石井さん自身が不登校になるまでの経緯を詳細に話してもらいました。

この記事のポイント

「学力向上だけが人生のすべて」となってしまった小学校5~6年生

私の小学生時代は、「学校へ行きたくない」と言ったことがない子どもでした。成績表の評価欄にはいつも「落ち着きがない子、活発な子」と書かれていたし、10年前の同窓会で会った同級生からは、「どうして不登校したの? 突然いなくなったよね」と言われたくらいでした。

不登校が始まったのは中学2年生の12月でしたが、その4年前にさかのぼり、小学校5年生から中学受験のために、学習塾に通い始めたことが、大きなポイントになっています。

塾に通っていたのは週3~4日の放課後と週末。毎週末テストがあり、成績順に並べられるスパルタ塾でした。塾がある日だけ勉強するのではなく、すべての生活は学力向上に充てられる、受験中心に回っているような生活でした。

非常に厳しい塾で、学力差別発言が当たり前にあり、「成績が悪いのは努力不足だ」といい、ぼんやりしていたら殴られることもありました。もちろん、学習障害や集中できない人への配慮なんてまったくありません。

成績順位がビリ周辺の生徒が教室に入るとその瞬間に、講師から「やる気がないから成績が悪いんだろ、教室から出ろ」と言われるんです。何か悪いことをしたわけじゃない、ただ成績が悪かっただけ。それだけで廊下に立たされる。大人が子どもを見せしめに使うわけです。

私がされたわけではないけれど、恐怖心がありました。できない人はそういう扱いを受けてしまうんだということが、ストレスになったし恐怖感がありました。

受験テクニックを一方的に教えるだけのスパルタ塾で追い込まれる

塾に通うことになったのは、母に行けと言われたからでしたが、そもそも母も私も、中学受験するつもりはなかったはずなんです。小5当時、何もしないで遊んでばかりいた私に、母が怒って「そんなにひまなら勉強しなさい! 塾に行くか!?」と投げかけ文のような命令形で言いました。私も、「お母さんが怒ったからしょうがないから塾へ行こう」と、はじめはその程度のことでした。それが、どうして中学受験することになったのか。

塾へ行き始めのころは、どんな人でもたいていぐっと学力が上がります。それは勉強のテクニックが一気に身につくから。そして、びっくりするほど褒められます。「石井君はすごく優秀で、このままいけば早稲田・慶應も夢じゃない。有名大学合格を見据えて学習計画を立てましょう」と言われました。でもそのあと、停滞するんです。実際、私もある程度の偏差値で止まってしまいました。

この停滞期に言われるのが、「間違えたのはケアレスミスだから、集中して落ち着いてやりましょう」ということ。これも、ほとんどの子が言われます。子ども1人1人をちゃんと見てのアドバイスではないのです。子どもとしては、「集中しろ」と言われたら、もっとがんばらなくてはと思うだけで、自分で対策は立てられません。

「あなたならできる」と「ケアレスミスをなくせ」という飴と鞭によって、「有名私立に行かなければ人生はない」と、母親も私も追い込まれていったのだと思います。これが当時のスパルタ塾のやり方でした。

子どもにとっての大事なホームを失うことで、クレプトマニアに

学校は楽しいけれど、塾は厳しいという状況で、成績が上がらず焦るばかりの日々。私は万引きするようになりました。はじめのきっかけは覚えていませんが、たぶん何か必要なものを盗った、ということだと思います。友だちにそそのかされたのではなく、まったくの単独行動、そして日常化する、典型的なクレプトマニア(窃盗癖)でした。

店に入った瞬間に防犯カメラの位置を確認する、罪悪感なんてない、盗ったものは食べてしまうか道端に捨ててしまうから親にはバレない。ほかの依存症と同じく、状況が苦しければ苦しいほど隠し方が巧みになっていきます。必要性があるとかないとかではなく、ただ万引きに依存している、という状態です。

なぜこんなことになったのかと考えると、私の場合、子どもにとって大切な3つのホームの一つが欠けてしまったからだったと、今になるとわかります。3つのホームとは、まず「家」まさにホーム、次に「学校」ホームルーム。そして「住んでいる街」ホームタウン。受験勉強が始まってから、家が居場所ではなくなりました。起きている間は当然勉強するべきものだという空気があり、遊ぶことは許されません。でも、勉強しても成績が上がらず、家は居づらい場所でした。

学校は居場所になっていたけれど、下校時刻になると閉ざされるので、第三のホーム、街をぶらつくようになったんです。家にできるだけ帰らず街をさまよううちに、おなかがすいたら食べ物を盗み、時間があったらマンガを盗む。小学生だったから万引きだったけれど、中学校なら不良グループに入っていたかもしれません。

子どもにとって、家に居場所がなくなるというのはこういうことです。加害者になるか被害者になるかもわからない、とても危険なことです。

私のクレプトマニアは、受験が終わると同時に止まりました。中学生になって店に入ったときに、普通にお金を出して物を買おうとしてる自分に驚いたくらいでした。

中学受験に失敗して、屈辱を抱えたまま公立中学へ通う

そんな状態で勉強を続け、第6志望校まで受験した結果はすべて不合格でした。十分手ごたえがあったのにダメだった第一志望校に関しては覚えていますが、そのあとのことは覚えていません。たぶん相当苦しかったはずですが、不登校したときよりも記憶があいまいです。大変な時ほど記憶がないものといいますが、ほんとうのことだと思います。

受験に失敗したときに親から言われたのが、「受験が失敗しても人生終わりというわけじゃないよ」という言葉でした。当時の私としては、「いまさらそんなことを言われても!」ですよ。全く耳に入ってきませんでした。言葉自体は悪くはないけれど、それは受験が始まる前から言ってくれないと意味がないのです。傷ついているときに言われても、何の慰めにもなりませんでした。

こうして、地元の公立中学校に入学したことは、同級生には申し訳ない表現ですが、大きな屈辱でした。常に大きな挫折感につきまとわれたままでした。理不尽な校則も受験に失敗したせい、人間関係で苦しいのも、いじめを見たり自分がいじめられたりするのも、これも受験の失敗のせいだと。そんな思いがつもっていきました。

校則について、私は「靴下の色がどうとかいう校則は理不尽じゃないですか?」と、学校でよく言っていました。あるとき担任の先生が、「あなたは受験に落ちてここに来たのだから、いいから従いなさい」と言ったそうなんです。この言葉、自分ではよく覚えていなくて、あとから友だちから聞いたことなんですが。それを聞いていた友だちは、「先生がそんなこと言うんだ!」とびっくりしたそうです。そんなことを子どもに言ってしまう先生は配慮がない、想像力がない人だなと、今になっても思います。

校則ひとつひとつが理不尽で従いたくない、というよりも、校則の仕組みが子どもをコントロールしようとする、人権を無視したようなことだったし、そこに受験による屈辱感と相まって、許せなくなってしまった。校則がおかしいと反発したときに、頭ごなしに締め付けてくる先生の対応にも腹が立ちました。

そして、とうとう中2の冬に不登校になりました。それまでの2年間ほどは学校へ通ってはいたのです。その間につもりつもったものが、さらにある事件が起爆剤となって不登校になりました。

学校が子ども同士の人間関係を崩壊させた

ある時期、クラスの中で万引きが流行ったんです。学校側は校内アンケートをとり、万引きしている生徒を洗い出していきました。私自身はもう、万引きはしていませんでしたが、親友がクレプトマニアのようにになってしまっていたのです。

彼は、生徒指導室に連れられて行き、先生に問い詰められて万引きを白状させられたあと、さらに「一緒にやった友だちの名前を言いなさい」と言われ、約7時間監禁されました。何も言わなかったためにとうとう殴られ、こわくなって友だちの名前を言ってしまった彼は、そのことで自分を責め、学校に来られなくなってしまいました。

その後、芋づる式に「取り調べ」が行われました。どの生徒がやったのかやってないのか、友だちの名前を言ったのか言わないのか、生徒たちは疑心暗鬼になり、人間関係・友達関係が崩れ、激しいいじめが流行りました。

もちろん、万引きはよくないけれど、たとえば警察と連携して再犯防止策を練るとか、なぜ彼が万引きをしたのかカウンセラーを入れるとか、学校もやり方があったでしょう。少なくとも、殴って友だちの名前を言わせるというのはおかしい。私は学校のやり方に疑問を持ったし、すっかり学校自体がイヤになってしまいました。

そこにさらに追い打ちをかける事件が起こります。ある日、みんなで学校をボイコットして、歩いて大阪まで行こうと企てました。結局、町田から相模湖あたりまで歩いたところで、たまたま居合わせた先生に見つかり、学校へ車で連れ帰され、最後は校長先生から、なぜか「甲子園で活躍した」という昔話を聞かされました。

私たちは学校の外へ出て行ったら、ほうっておいてくれると思ったのに、結局追いかけてきて捕まえるんだということが許せませんでした。私たちが傷ついているのは学校のせいなのに、そこに何の反省もないんだ、と。

夜中に家に送り返され、母親に初めて「学校に行きたくない」と言いました。学校はずっといやだったけれど、もうほんとうに行きたくない!と号泣したのです。蓋をしていたものが一気に外れたのです。母は「わかった」と受け入れてくれました。長い1日でした。

こうして、私は不登校になったのです。

まとめ & 実践 TIPS

石井さんは、追い込まれるようにして中学受験し、失敗した屈辱感を抱えたまま公立中学校に進みました。そこで経験した、学校側の上から一方的に子どもたちを押さえつけ、学校から逃さないようにする態度によって、石井さんは不登校になります。これは石井さんの個人的なストーリーかもしれませんが、なぜ子どもは不登校になるのかについて考えるヒントがたくさん含まれているようです。

(文・取材/関川香織)

参照:
不登校になった子どもに、親ができること[不登校との付き合い方]

後編「不登校したら、楽しんだらいい」と言われた言葉が指針に。フリースクールに通ってから「不登校新聞」編集長になるまでのこと[不登校との付き合い方(24)]

プロフィール


石井志昂

『不登校新聞』編集長。1982年生まれ。中学校受験を機に学校生活があわなくなり、教員、校則、いじめなどにより、中学2年生から不登校。17歳から不登校新聞社の子ども若者編集部として活動。不登校新聞のスタッフとして創刊号からかかわり、2006年に編集長に就任。現在までに不登校や引きこもりの当事者、親、識者など、400名以上の取材を行っている。

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