好きなことを忘れてしまった中学時代。 でもある友達のひと言が、ぼくを目覚めさせた
発表する作品が国内外で次々と話題になり、2015年3月には「デザイン界の芥川賞」とも呼ばれる「2014年毎日デザイン賞」を受賞したアーティストの鈴木康広さん。今回のインタビューは、代々芸術家の家系に生まれたわけではないという鈴木康広さんが、どのような中学時代を過ごし、どんな道筋でアーティストとして活躍するまでになったのかを伺いました。お子さまが、自分らしい大好きなことを生業にしていける大切なヒントを見つけられるかもしれません。 ※2015年7月現在 (取材・文/長谷川美子)
「ファスナーの船
ファスナーの形をした船が海を進むと、その航跡がまるで海をファスナーで開いているように見える作品。瀬戸内国際芸術祭2010では、11メートルの大きさで出展し話題を呼ぶ。
年中無休で店の仕事が忙しかった両親。子ども時代に最も影響を与えてくれたのは、親戚の大人たちかもしれないです
鈴木さんはどんな環境で幼少期を過ごされたのですか?
実家はスーパーを営んでいました。ぼくが幼稚園から小学生の頃、店はまさに全盛期で、従業員やお客さんなど、朝から晩までさまざまな人でごった返していたのを覚えています。スーパーと実家は重なるように隣接していて、その建物の隙間がぼくの格好の遊び場でした。広い駐車場、砂利道、レンガの焼却炉、段ボール小屋、そして複数の冷蔵庫のある遊び場。さらにその冷蔵庫に運ばれる野菜、肉、魚、冷凍食品など、たくさんの食品やモノを身近に見られたことも、今思うと贅沢な環境だったと思います。そんな環境の下、ぼくは段ボールで工作をしたり、基地を作ったり、店内のレジ横で工作をして遊んでいました。そして小学生ぐらいまで、将来は家業のスーパーを継ぐと思っていて、それは全く嫌ではありませんでした。
子ども時代に影響を受けた人はいらっしゃいますか?
両親が年中無休で朝から晩まで働いていたせいか、子どもの頃に影響を受けたのは、親以外の親戚や従業員の人たちです。
祖母はアイデアマンというか、発想のとてもおもしろい人でした。ぼくが砂利に100円玉を落として見つからなかったとき、「100円玉同士は仲間だから、違う100円玉をぽんと投げたら、落とした仲間の100円玉のところに行くんじゃないかな?」という話になり、実験したら本当にその通りになって驚いたのを覚えています。祖父もかわいがってくれました。
ぼくが、「こいのぼりを一年中飾ってほしい」と母に頼んでいたら、「よし!」と言って丸太を切り、本当にこいのぼりを一年中設置しようとしてくれるような人でした。そんな祖父の行動を常識的な父が止めてしまいましたけれど(笑)。
また、同じスーパーで働いていた父方のおじさんも楽しい人で、レジのひまなときに一緒に紙飛行機を作ったり、ぼくが飛ばした飛行機をキャッチしてくれたりしました。他にも毎週のように釣りや映画館に連れて行ってくれた別の親戚のおじさんもいて、子ども心にとてもうれしかったです。ぼくはそういう大人たちに育てられ、幼少期をのびのびと過ごしたんです。
「よく作れたなあ!」と大人が驚くのがうれしくて、作っては、反応を楽しんでいた子ども時代
小学校時代まではどんなものを作っていたのですか?
小学生の頃は、段ボールをもんで柔らかい皮のようになめした後、麻ひもを使って野球のボールやグローブなどを作っていました。本物のボールやグローブも持っていたのですが、もともとある道具を、違う素材でそっくりに作るのが好きだったんです。作ったものを、親戚のおじさんなどに見せると、本当にびっくりして「よく作れたなあ!」などとほめてくれました。
ちなみにぼくの初めての工作は、幼稚園時代の折り紙です。姉の通っていたピアノ教室に折り紙の本があり、ぼくは姉のレッスンを待つ間に折り紙に夢中になりました。そしてお気に入りの作品を友達に見せては、おもしろいと言ってくれるかどうかを楽しみにしていました。
「大きな空気の人」
勉強は中2で突然やる気アップ。ハードな陸上の練習もがんばっていた
中学時代はどのように過ごしましたか?
転機がきたのは中2の後半です。自分よりちょっと勉強のできる遊び友達に、「やすぼうなんて相手にしてないから」と言われたんです。なぜそう言われたのかは忘れましたが、衝撃的に悔しくて、たしかその後、泣きました。そして突然やる気が芽生えたのを覚えています。
そこからは生まれて初めて、自分から猛勉強。すると成績が急に伸びて、学年で100番ぐらいだったのが10番以内に入る程に上がりました。それまでのぼくには、勉強ができる喜びを感じる欲求なんてまるでありませんでした。でもそのとき、誰かにやらされるのではなく、自分からやってやろうと思ったときの、すごい力を実感できたのです。
部活は陸上部でした。こう見えても子どもの頃は工作や絵以上に運動が得意で、走るのもぶっちぎりに速かったんです(笑)。種目はハードルと高跳び。毎日朝練や放課後練で大変でしたけれど、とにかく一生懸命でした。後半、外反母趾で踏ん張れなくなり、思うように記録が伸びなくなって落ち込みましたが、今思うと逆によかったのかなと思っています。それがあったからこそ将来スポーツの方面ではなく、アートの方面へ向かうことになったからです。
それにしても中学の頃は部活と勉強ばっかりで、びっくりするぐらい工作やアートには無縁の時代でしたね。
「遊具の透視法」(撮影/川内倫子)
NHK「デジスタアウォード2001 」最優秀賞受賞作品。鈴木康広さんのアート活動を広げる原点となった、在学中の作品。ジャングルジムで遊ぶ子どもたちを昼間に撮影し、夜に同じジャングルジムをスクリーンに見立てて上映するインスタレーション。
子ども時代好きだった工作を思う存分やってもよくなったとき、心からほっとして意欲があふれてきました
そんな工作少年だった鈴木さんが、再び工作の世界を思い出して、そこに進むことを決めたのはいつですか?
高3の秋です。その頃、国語と数学が苦手な自分は、一体どういう大学に進めばいいのか、将来についてもんもんと悩んでいました。入試まであと3か月余り。けれど願書も書けず窮地に陥っていたとき、「美大を受ける」という友達の何気ないひと言で、視界がいきなり開けたのです。それまで「美大」という選択肢を思いつきもしなかったのですが、その瞬間、美大ならぼくも、と深いところでピンとくるものがありました。
突然のぼくの決断に、高校の先生は反対しました。でも両親は、心配したけれど結局認めてくれたんです。ぼくが自分でやりたいと思った気持ちを両親がわかって尊重してくれたこと、それが何よりありがたかったです。
いざ美大に行くと、そこはまだ何も知らない世界だったけれど、心の底から安心しました。自分にとって本当に好きなものを、勉強や部活の合間にではなく、本業として全力でやっていい環境に変わったからです。
そこからはずっと、たとえどんな大変なことをやっていても、自分にとっては「努力」とは違うものになったと思います。そうしてありがたいことに、自分らしいアートを無我夢中で探究するうちに、さまざまな賞をいただいたり、一緒に仕事をしようと言ってくれる人が現れたりするようになりました。
鈴木さんのように好きな分野を生業として活躍するために、親が子どもにできるサポートはなんだと思いますか?
ぼくの場合を振り返ると、将来アーティストになるとは自分も親も思っていませんでした。ただ、運動でも工作でも、自分の好きなことを思う存分やらせてもらえた環境がとてもよかったと思います。また親がいいと思う価値観や進路を押し付けられた経験もありませんでした。そう考えると親にできる一番の支援というのは、子ども本人がやりたい、と心から言った瞬間を見逃さないことに尽きるのではないかと思います。たとえそれがすぐに役に立つかわからなくても、子どもが自発的に何か学ぼうとする気持ちを邪魔しないであげることかもしれない、とぼくは思うんです。