朝廷から全国へ。儀礼として見せる相撲

2012年4月から中学校の体育で男女ともに武道が必修になったことで身近に感じられるようになった相撲。今でこそ大人から子どもまで楽しめるものになりましたが、それは江戸時代からのこと。かつての相撲は貴族や大名、神仏や天皇に見せるための、儀礼に近い形で行われていました。


貴族と天皇に見せる相撲

 およそ1600年前の雄略(ゆうりゃく)天皇時代に残された説話のなかには、女に相撲を取らせたという話が記されています。そのなかですでに裸にふんどしという格好で相撲がなされていたことがわかっています。具体的な説話の内容は、「猪名部真根(いなべまね)という木工の名人が自分の技量をいつも自慢するため、天皇が一計を案じ、彼の手を誤らせようと、宮中の女官に「犢鼻褌(とうさぎ)」というふんどしで相撲を、猪名部真根の仕事をするそばで取らせた」というもの。女相撲が当時は行われていたものなのか天皇のその場の思いつきなのかは定かではありませんが、この当時すでに「相撲にはふんどし」という形がありました。

奈良時代には朝廷に各地から力自慢の者たちを集めて戦わせ、その中でも優秀な者を兵士として招き入れる習わしが存在していました。しかし、そこでは「相撲」に限定されず、さまざまなルールで「異種格闘技戦」の状態で行われていました。当時は打突(だとつ)系や組技系のさまざまな技で競い合うもので、朝廷の行事として定例化されてから「相撲」として統一されるようになりました。

平安時代になると、貴族たちの相撲観覧である「相撲節(すまいせち)」が7月の恒例行事になります。各地から使者を派遣し「相撲人(すまいびと。当時力士はこう呼ばれました)」を集め、左右の陣営にわかれ稽古し、天皇貴族の前で両陣営の対抗戦をし、翌日には「お好み」という余興のような選抜戦が行われました。当時は土俵の概念はなく、勝利条件は相手を倒すというルール。そこから400年の歴史を重ね、相撲の形が整えられていきました。
 

相撲が全国に広まる

 相撲節が整えられると、それを真似て皇族や貴族の中には私邸で開催する人々も現れるようになりました。京都周辺の寺社では神や仏に奉納する芸能の一つとして、神楽などとともに相撲を「神様に見せる」ようになります。京都に招かれた相撲人は、みずからの故郷でも、都で習い覚えた相撲を伝えました。そして、やがて全国各地に広まり、相撲が各地の神社仏事の祭礼の一つとなり、神仏以外にも祭礼に集う人々が相撲の楽しみに触れられるようになったのです。そして、朝廷の相撲節は平安末期に途絶えてしまいますが、相撲の文化は全国各地に残ったのです。
 

大名のための相撲

 平安時代の相撲節に代わって鎌倉・室町時代には将軍や大名が貴族に変わって相撲人を招き、相撲を観覧しました。その中で、優秀な相撲人は家臣として安定した報酬を得るようになります。織田信長や源頼朝などの有名武将も相撲を愛好し、召し抱えている相撲人の技を客人の前で披露することもあったそうです。相撲人たちはそうした機会を求め、諸国から京の都に上り、室町時代は相撲の本場として京都がにぎわいをみせるようになりました。

参考文献:新田一郎「相撲のひみつ」 朝日出版社

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