武蔵野美術大学 造形学部 教職課程研究室(1)美術教育は新しい社会をつくるカギ 「旅するムサビ」で学生が子どもに美術を体験させる機会を実現[大学研究室訪問]
日本が転換期を迎えた今、大学もまた大きく変わりつつあります。そんな時代に、大学や学部をどう選び、そこで何を学べば、お子さまの将来が明るく照らされるのでしょうか。「美術教育」を研究している武蔵野美術大学 造形学部 教職課程研究室の三澤一実教授の研究をご紹介します。
■学校で美術という教科が存在する意味とは?
小学校の黒板に絵を描くムサビの学生
学校の美術の授業は何のためにあると思いますか? 実は、その問いを私自身も持ち続けていました。かつて私は、中学校の美術教師をしていました。中学校は義務教育の最終段階として、集団行動や社会規律を身に付けることを重視した指導が行われる場です。「これで社会に出ていっても大丈夫」というところまで、生徒に社会性の基礎を身に付けさせることが命題なのです。
一方で、美術とはどんな教科でしょうか?
人と違う自己の価値意識を見つめて、そのよさや美しさを色彩や形で表したり感じ取ったりする、「個」を主体とした教科です。
当時の私は、中学校の教員として、集団を成立させるための生徒指導と、個を確立させるための美術教育のはざ間で悩んでいました。
その後、大学に移り、美術教育の研究を深めるうちに、その答えが見えてきました。社会は個人の自立があって成立するもの、それぞれの人間的成長の上に支えられているものです。つまり、一人ひとりの思いや考えを表現したり、願いや希望を形にしたりする個人の力がなければ社会は停滞するのです。特に、コピーが上手な日本からオリジナルを生み出す「創造立国日本」へと発展をしていくのなら、個人が自立して豊かな発想で社会を動かしていくことの重要性はますます高まっていくでしょう。
私は、美術は他の教科にはない個の自立を促し、かけがえのない一人ひとりの個性を造形の力で社会とつなぎ合わせていく教科であり、新しい社会を創造する力を養うことができる教育なのだと気付いたのです。
■美術教育で培うことのできる力とは
美術教育では、「表現」と「鑑賞」という学習の手段があります。表現で行う作品制作では、個人的な思いや感情、考えや提案を、造形活動を通して形にしていきます。そのプロセスは主に次の3段階になります。
〈第1段階〉自分が何を伝えたいのか、表したいのか、考えをまとめる(アイデア・主張)
〈第2段階〉その思いをどうやって形にするか考え、表す (企画・伝達)
〈第3段階〉形になったものを見て、自分や他者と批評し合う(コミュニケーション・文化創造)
このように見ていくと、各段階において、社会で生きていくうえで必要な力を養うことができます。第1段階では他者と異なった自分らしいユニークな発想が育ち、第2段階では、その考えを実現する計画性や行動力、そして共同作業する際の協調性や調整力が必要になります。第3段階では批判的に物事を見つめ、よさや美しさ、そして問題点を見極める批判的思考力が養われるのです。これらはまさに社会や企業が欲している力です。
また、国際化社会や情報化社会の中で日本文化の尊重や異文化理解が重要になってきました。美術教育において重視されてきている「鑑賞活動」では、その能力を育てることもできます。異なる文化について美術の視点からそのよさや美しさを味わったり、自国の美術文化に対する理解を深めていったりすることができるのです。グローバル化が進んでいく中で、自分のアイデンティティーをしっかり持ちながら、他者の価値観を受け入れるという姿勢はますます必要となるでしょう。
同様に、他者がどんな表現をしているのかを鑑賞することで、自分との違いや共通点を見つけていくことも重要な視点です。
美術において、答えは一つではありません。美術は、それぞれのよさを認め合える力を養い、他者の表現から気付きを得て、自分の生き方を考える教科。そのためにはじっくりと考え創造する十分な時間が必要なのです。
実は、私は美術教育がもっと浸透すれば、いじめの問題も軽減するかもしれないと思っています。いじめは、いじめる側が自分たちとの差異を見つけて引き起こす場合が多いですよね。しかし、世の中で一人ひとりの違いは当たり前のこと。子どもたちが、それぞれの違いをよさとして認め合えるように成長していくことができれば、他者との違いに落ち込んだり、みんなと違う特徴を持った子をいじめたりするようなことは自然となくなっていくのではないかと感じているのです。
■美術教育の価値を世の中に伝えていきたい
図工や美術で、何を基準に評価しているのだろうかと疑問に思ったことはありませんか。学校の中での美術教育は、趣味で美術をすることとはまったく違います。それは、授業には明確な学習目標があるからです。「今日の授業ではこんなことを学んでください」と、教師はあらかじめ授業の中で伸ばす力を生徒に伝え、生徒はその目標に向けて取り組む。つまり、授業とは教師と生徒の契約の上に成り立つ学習活動なのです。
しかし、その学習の目標を提示して授業に入る教師はどれほどいるのでしょうか。何のための美術教育かを語っていかなければ、美術とは「絵や彫刻などを上手に作るための教科」という意識に陥ったままとなってしまいます。
美術教育は、「美しい作品を作る」ことが目的ではありません。本来であれば、前述の学びの3段階を通して、いかにこれからの社会を生きるために必要な能力を伸ばすかが重要なのです。また、その評価は、アイデアのよさや面白さ、表現に結び付ける構想力、材料や用具を使って思いを形に表す力、自他の作品からよさを感じ取る力などの観点で行われるべきだと考えています。
よって単純に「美しい作品」という結果だけで、成績は左右されるべきではないのです。
残念ながらこうした美術教育のあり方については、一般にはなかなか理解されていません。社会に対して美術教育の役割を真剣に伝えていかなければ、本来の美術教育は機能しないままでしょう。
そして、美術教育のよさは体験を通してでしか伝わらないものです。いくら言葉で説明しても伝わりきらない。そのため、大学の教職課程においても、実際の活動を重視しているのです。
それが、学生と共に自身の作品を持って学校を訪れる「旅するムサビ(武蔵野美術大学の略称)」を始めた背景でした。
■「旅するムサビ」でラッピング電車を走らせる
「旅するムサビ」は、小学校、中学校、高校、そして美術館や教師の研修会などへ学生が自分の作品を持っていき、児童・生徒、教師に鑑賞してもらうプロジェクトです。
これは、ある中学校教師の「本物を子どもたちに見せたい」という声から始まりました。学校の中でも家庭でも、外国に比べ美術作品に触れる機会が少ないという問題意識があったのです。
その「旅するムサビ」が、美術館などでの鑑賞と大きく違う点は、作者がその場にいるということです。作者と対話しながら作品鑑賞を深め、表現の意図を探れるのが「旅するムサビ」の醍醐味(だいごみ)です。
<「旅するムサビ」における大まかな鑑賞パターン>
1.子どもたちに事前情報などは伝えずに作品を鑑賞させる
2.作品を見て子どもたちがどんなことを感じたか、考えたかを、ファシリテーター(鑑賞の案内役)が聞いていく
3.ひとしきり子どもの意見を聞いたところで作者が登場し、子どもたちの疑問に答えたり、制作の意図などを話したりしていく
※ファシリテーター、作者は全員学生が担当。
ムサビの学生の作品を鑑賞する子どもたち
「対話型」の鑑賞は、子どもたちに感動をもたらします。同じ作品を見ながらも一人ひとりの感じ方の違いに気付き、さらに作者の解説を聞いて、「そんな思いがあったのか!」という新たな発見や洞察力を高めるのです。結果的に、物事に対して広い見方ができるようになっていくといえるでしょう。この活動も現在8年目を迎え、今までに全国の15都道府県の約120校で実施してきました。
また、「旅するムサビ」の活動は、地域を舞台にしたプロジェクトとなることもあります。長野県小諸市の青年会議所が設立50周年を記念して、しなの鉄道の電車をラッピングして走らせる「小諸発!ドリーム列車"絆"」を企画され、「旅するムサビ」にその協力依頼がきたのです。そこでは電車のデザインや子どもたちとのワークショップ運営について相談をされました。
当初、デザインの方向性について、企画者の小諸青年会議所のかたと学生たちの意見が真っ二つに割れました。イメージについて互いに話し合っても、なかなか伝わらない。そこで、実際にイメージしている色や柄のデザインを絵に描いて見せることで、やっと合意にまでこぎ着けました。絵は異なるもの同士を互いに理解させ、つなぎ合わせる接着剤の働きをするのだと改めて痛感しました。
デザインは車両ごとに異なる
小諸市のシンボルとなったラッピング電車
近年、地域におけるアートの役割は高まっています。アートがあることで、日頃、地域にいない人たちや情報を呼び寄せ、刺激をもらったり、自分の地域を見つめ直したりすることができる。美術には人と人、地方と都会とを接着する力もあるのです。