読書と受験勉強[中学受験]
前回は、読書は読解力の「基礎」を養うという話をした。今回は、その基礎力の上に構築すべき「受験レベルの国語力」の話をしたい。
「受験レベルの国語力」というのは、試験問題の本文を理解するための「長文読解力」と、答案をつくるために該当の箇所を精密に読むための「精読力」の二つに分類されると考える。
まず「長文読解力」だが、読書をすることで養われることは期待できる。この力は「問題文全体を把握する力」であり「見渡す力」である。つまり問題文を「○○の物語」や「△△の話」という一文にできる力である。だから多くの本を読んでいる子どもは、ある程度はこういった力が付いてくるものだ。
ただし本の読み方によっては、あまり付かない場合もあるので注意したい。たとえば、物語のストーリー展開のみに気持ちを奪われて、筆者のイイタイコトをあまり考えない子どもである。そんな子どもは、「どんな話だったの?」と聞いても「物語のあらすじ」だけを言って筆者のイイタイコトが伝わってこない。たとえば「ある小学校にとても気の弱い少年がいて、運動神経も悪いし、すごく自信がない。ところがある時将棋と出会い、少しずつ上手になって、小学生の全国大会に出場して……」という具合に延々と話すであろう。もしこれを一文にまとめるとすれば、「気の弱い主人公が、将棋を通じて自信を取り戻す成長の物語」とでもいえるであろうか。そして筆者のイイタイコトが、「何かに打ち込むことの素晴らしさ」であるとか、「努力の大切さ」であるなら、そういった内容を一文に入れても良い。
このような全体を見渡してまとめる力は、本を読んでいる時、あるいは読み終わった時に、「なぜなんだろう」とか「何がイイタイのだろう」を考える習慣を身に付けることで養われるものである。少なくとも5年生になったら、「考えながら本を読む」という習慣はぜひ付けたい。そうでなければ、単にストーリーを楽しむだけの娯楽になってしまう可能性が高い。もちろん読書を「楽しむもの」と位置付けている場合であれば、そんな読み方も間違いではないとは思う。
次に「精読」とは、受験において正解を得るために、問われている箇所を精密に読むことである。この読み方は、小学生が行う読書の読み方とはかなり違う。もし普通の物語を「精読」するとなると、非常に時間がかかり途中で疲れてしまうだろう。
「精読」をするとは、大人が仕事のために本を読むとか、あるいは難解な哲学書を読む時に似ているかもしれない。小学生の読書は楽しむために、あるいは考える力を養うために読むものである。大人のように、仕事のための読書とはおのずと目的が違うと思われる。たとえば仕事のための読書であれば、大切な箇所に線を引き、あるいは付せんを貼り、または重要な文は書き抜いておくなどをすることが多いだろう。小学生の読書には、さすがに似合わないのではないか。その意味では「精読」は読書によって身に付けるのではなく、入試問題演習を通じて習得するのが自然であろうと考える。
今回は、読書によって「長文読解力」は養えるが、「精読力」はなかなか養えないという話をした。また「長文読解力」を養うためには漫然と本を読むのではなく、「考えながら読む」ことが必要であるとも述べた。
ところで、「本を読めばなんらかの知識が集積されるのではないか?」「そういった知識がとても大切な財産になるのではないか?」と考えるかたもいらっしゃると思う。一般的に考えればそのとおりなのだが、こと中学受験に限って言えば、そうとばかりは言えない状況にある。なぜなら、普段子どもが読まないような本から、問題文が出される場合が非常に多いからである。この話は、次回行う。
「受験レベルの国語力」というのは、試験問題の本文を理解するための「長文読解力」と、答案をつくるために該当の箇所を精密に読むための「精読力」の二つに分類されると考える。
まず「長文読解力」だが、読書をすることで養われることは期待できる。この力は「問題文全体を把握する力」であり「見渡す力」である。つまり問題文を「○○の物語」や「△△の話」という一文にできる力である。だから多くの本を読んでいる子どもは、ある程度はこういった力が付いてくるものだ。
ただし本の読み方によっては、あまり付かない場合もあるので注意したい。たとえば、物語のストーリー展開のみに気持ちを奪われて、筆者のイイタイコトをあまり考えない子どもである。そんな子どもは、「どんな話だったの?」と聞いても「物語のあらすじ」だけを言って筆者のイイタイコトが伝わってこない。たとえば「ある小学校にとても気の弱い少年がいて、運動神経も悪いし、すごく自信がない。ところがある時将棋と出会い、少しずつ上手になって、小学生の全国大会に出場して……」という具合に延々と話すであろう。もしこれを一文にまとめるとすれば、「気の弱い主人公が、将棋を通じて自信を取り戻す成長の物語」とでもいえるであろうか。そして筆者のイイタイコトが、「何かに打ち込むことの素晴らしさ」であるとか、「努力の大切さ」であるなら、そういった内容を一文に入れても良い。
このような全体を見渡してまとめる力は、本を読んでいる時、あるいは読み終わった時に、「なぜなんだろう」とか「何がイイタイのだろう」を考える習慣を身に付けることで養われるものである。少なくとも5年生になったら、「考えながら本を読む」という習慣はぜひ付けたい。そうでなければ、単にストーリーを楽しむだけの娯楽になってしまう可能性が高い。もちろん読書を「楽しむもの」と位置付けている場合であれば、そんな読み方も間違いではないとは思う。
次に「精読」とは、受験において正解を得るために、問われている箇所を精密に読むことである。この読み方は、小学生が行う読書の読み方とはかなり違う。もし普通の物語を「精読」するとなると、非常に時間がかかり途中で疲れてしまうだろう。
「精読」をするとは、大人が仕事のために本を読むとか、あるいは難解な哲学書を読む時に似ているかもしれない。小学生の読書は楽しむために、あるいは考える力を養うために読むものである。大人のように、仕事のための読書とはおのずと目的が違うと思われる。たとえば仕事のための読書であれば、大切な箇所に線を引き、あるいは付せんを貼り、または重要な文は書き抜いておくなどをすることが多いだろう。小学生の読書には、さすがに似合わないのではないか。その意味では「精読」は読書によって身に付けるのではなく、入試問題演習を通じて習得するのが自然であろうと考える。
今回は、読書によって「長文読解力」は養えるが、「精読力」はなかなか養えないという話をした。また「長文読解力」を養うためには漫然と本を読むのではなく、「考えながら読む」ことが必要であるとも述べた。
ところで、「本を読めばなんらかの知識が集積されるのではないか?」「そういった知識がとても大切な財産になるのではないか?」と考えるかたもいらっしゃると思う。一般的に考えればそのとおりなのだが、こと中学受験に限って言えば、そうとばかりは言えない状況にある。なぜなら、普段子どもが読まないような本から、問題文が出される場合が非常に多いからである。この話は、次回行う。