北条義時の生涯が、令和の今こそ注目される理由

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北条義時といえば、大河ドラマの主人公になったことで一躍注目を浴びている人物です。「現代の日本社会が義時から学べることは多い」と話すのは、歴史研究家であり作家の加来耕三先生。加来先生は「歴史を今に活用する」を切り口に、多数の執筆活動やテレビ・ラジオへの出演をされてきました。
学習漫画「コミック版 日本の歴史」シリーズ『鎌倉人物伝 北条義時』(ポプラ社)の監修も務められている加来先生に、北条義時の魅力を伺いました。子どもから大人まで、知れば「そうなんだ!」の連続なので、親子の会話にぜひお役立てください。

———北条義時とはどんな人物なのでしょうか?

北条義時はあまり目立たず水面下で活躍したため、地味な印象を持つ人も少なくないでしょう。しかし、実は破壊と建設という異なる2つの大仕事に関わった歴史上めずらしい人物です。

義時は、源頼朝の右腕として平氏政権の打倒に貢献しました。その後は鎌倉幕府の創設にも関わり、幕府の安定化と権力争いのため身を削ります。
そして、朝廷と幕府の戦いである承久の乱では、義時がリーダーシップを発揮し、幕府を勝利へと導きました。

———なぜ、義時が今クローズアップされているのでしょう?

義時は今の日本が求めるリーダー像に近いと感じます。
彼が生きた12〜13世紀は、政治の権力が貴族から武士へ移り変わる大転換期でした。そのような先を見通すのが困難な時代にあって、義時は目の前に迫る課題を着実に対処していき、社会の安定をめざしました。
現代も同じく先行きが見えない時代ですから、義時の生涯が注目されているということはあるでしょう。

もう1つ、義時は決して目立たず自己主張も積極的ではない人物でした。しかし、自分がトップに立ったならばどうするか、という問いかけは持ち続けていました。
こうした義時の性格も現代に生きる私たち、特に若い人から共感を得られそうな点だと思います。

———義時は源頼朝とセットで描かれることが多いですが、2人の関係性はどのようなものだったのでしょうか?

義時にとって人生のお手本が頼朝でした。
2人が出会った当時の北条氏は、京から遠く離れた伊豆の小さな一族にすぎません。一方、そんな伊豆に流れ着いた頼朝は、幼少期を京で過ごした都会人。義時にとって、都会から来た頼朝はあこがれそのものだったでしょう。
そして、義時はそんな頼朝に認められ、まな弟子のような存在になります。

ちなみに、頼朝も義時も学ぶことが好きだったのではないか、と私は思っています。
頼朝は伊豆に流れ着いてからは時間をもてあましていたでしょうから、その間にいろいろなことを勉強したはずです。義時も頼朝のそばから離れず、必死にその生き方を学んでいたのです。

———義時から見て、頼朝はどんなところが優れていたのでしょうか?

頼朝は周囲の人々の心をつかむのがうまかったのです。
源氏の一族とはいえ、頼朝はたくさんいる源氏の一人にすぎません。しかも、伊豆にいた頼朝には力も人脈もなく、動かせる兵力もありませんでした。では、なぜそんな頼朝が関東の武士をまとめ上げ、遂には鎌倉幕府をつくることができたのでしょうか。

頼朝は、武士たちの最大の関心が「土地」であったことを見抜いていました。武士の世界では土地をめぐるトラブルが多かったのです。だから、頼朝は彼らの土地問題を解決し、土地を保障してやることで味方を増やしたのです。

———弟の源義経も人気がある人物ですが、彼と頼朝の違いは何なのでしょうか。

源義経は非常に優れた戦術家でしたが、武士の心をつかむことはできませんでした。それが頼朝と義経の明暗を分けた最大の要因といえます。

義経が戦いに強かったのは、禁じ手とされていた奇襲戦を戦いにもち込んだからです。当時の武士たちには、「正攻法で堂々と戦うべき」という固定観念がありました。それを逆手にとって奇襲をしかけた義経は、すさまじい戦果を上げました。しかし、義経が行った常識破りの行動の数々が、武士たちの反感を買う結果となりました。

義経は社会通念を破ったという点でイノベーティブな人物でした。しかし、トップである頼朝や、周囲の武士たちとの信頼関係を築くことはできず、頼朝と対立し東北の地で最期を迎えてしまいます。

歴史を学ぶとわかりますが、いつの時代でも、人々の求めるものを理解してその心をつかむことが重要なのです。そのことを義時も、頼朝の背中を見ながら学んでいったのでしょう。

———鎌倉幕府の成立後、承久の乱という危機が義時に訪れます。義時はどのようにしてその困難を乗り越えたのでしょうか。

義時には、戦いが始まる前から大きな困難が待ち構えていたのです。朝廷と戦うに当たっての作戦案は、当初2つに分かれていました。1つは足柄・箱根で朝廷の軍を迎え撃つ案、もう1つは積極的に京へ攻めあがる案。話し合いの末、積極的に京へ攻めあがる案が採用されます。しかしその後、「やはり朝廷の軍を迎え撃つべきだ」との声が高まりました。

「このままでは組織が分裂してしまい、戦う前から負けてしまう———」。

そこで義時は、すぐさま長男の北条泰時を出陣させて、京へ攻めかからせたのです。幕府内の意見が完全に割れる前に、一度決まった案をすぐに行うことで、義時は組織をまとめました。

たとえ計画に未熟なところがあっても、即決してやり通すこと。義時が優れていた点はそこでした。

———義時の困難を乗り越える力は、どのように磨かれていったのでしょうか?

朝のラッシュアワーを想像してください。あなたは電車の乗り継ぎをしなければなりません。急げば早い電車に間に合いそうです。

その時、「急いで次の電車に乗れば、少しでも早く目的地にたどり着くぞ」と考える人と、
「2、3分急いでどうなるんだ。どうせその次の電車はすぐ来るのだから」と考える人がいます。しかし、その数分の差が結果的に30分、1時間の差になるとしたらどうでしょうか。

義時は前者のタイプです。彼は目の前の一つひとつの課題に対し、最良の選択をしようと試みました。その地道な「少しでも」のくり返しが、名もない武士から幕府一の権力者にまで上り詰めた義時の本質なのです。

———義時の生涯から、令和に生きる私たちはどんなことを学べるでしょうか。

先に述べたように、義時が生きた時代は大転換期でした。現代社会も、感染症問題による急速な生活の変化や、技術の進歩による社会の変化など、大きな転換期を迎えています。

そんな現代とよく似た当時の状況にあって、義時はどんな困難があってもじっと耐え忍び、逃げずに徹底して考え続けたのです。そして、目の前の課題を客観的にとらえ、正確に先を見通し、一度決定したことを徹底的にやりぬきました。そうした義時の姿勢は、令和に生きる私たちにも大いに参考になるのではないでしょうか。

プロフィール

加来耕三

加来耕三

歴史家・作家。1958年大阪府大阪市生まれ。1981年、奈良大学文学部史学科卒業。学究生活を経て、1984年に奈良大学文学部研究員。現在は歴史家・作家として、独自の史観に基づく著作活動を行う。内外情勢調査会、地方行財政調査会、政経懇話会、中小企業大学校などの講師も務める。『鎌倉殿を立てた北条家の叡智』(育鵬社)、「コミック版 日本の歴史」シリーズ(ポプラ社)80巻などの監修を含め、著書・監修多数。

株式会社プランディット 社会課 嶋田
「進研ゼミ」を中心に、中学生向けの社会(地歴公)の教材編集やライブ授業の講師を担当。小学生のときに修学旅行で鎌倉を訪れ、神社仏閣の荘厳さに心を打たれる。

プロフィール



1988年創業のベネッセ・グループの編集プロダクションで,教材編集と著作権権利処理の代行を行う。特に教材編集では,幼児向け教材から大学入試教材までの幅広い年齢を対象とした教材・アセスメントの企画・編集を行う。

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