• 中学●年生
  • 教育動向

「冷淡な政治家」という評価は正しいのか? 源頼朝の真の顔とは?

壮観の家系図! 源頼朝という人物

源頼朝(みなもとのよりとも)は武家政治の基礎を作った人物で、源頼朝が作った鎌倉の武家政権はのちに鎌倉幕府と呼ばれます。一時、中断されたこともありましたが、江戸幕府が大政奉還(たいせいほうかん)を行って天皇に政権を返上し、幕府そのものが無くなるまで武家政権は700年近く続きました。

では、武家政権の基礎を作った源頼朝とはどのような人物だったのでしょうか?

源頼朝は源義朝(みなもとのよしとも)の三男として、現在の名古屋市熱田区(あつたく)に生まれました。源頼朝が生まれたのは清和源氏(せいわげんじ)に属する武士の家柄で、特に大阪に拠点を置いた河内源氏(かわちげんじ)と呼ばれる一派でした。この中には、武田信玄(たけだしんげん)の先祖にあたる甲斐源氏(かいげんじ)や、室町幕府を開いた足利氏の始祖となる人物もいます。

源頼朝は10代の頃、父の源義朝が平治の乱で敗北したことがきっかけで、平清盛(たいらのきよもり)によって伊豆へ流されてしまいます。

しかし、伊豆では比較的自由に生活できましたが、おとなしく暮らしていました。伊豆の豪族だった北条時政(ほうじょうときまさ)の長女・北条政子(ほうじょうまさこ)とはこの流人時代に結婚しています。源頼朝と北条政子は、当時にしては珍しい恋愛結婚で、源氏である源頼朝と平氏に属する北条家の娘・北条政子との結婚は周囲に激しく反対されたそうですが、周囲の反対を押し切って結婚しました駆け落ちしてまで一緒になっています。

治承(じしょう)4年(1180年)、以仁王(後白河法皇の子)が平氏の追討(ついとう)を呼びかけると、これに従って挙兵しました。平氏を次々と破り、兵を送ってついに滅亡にまで追い込みます。

その後は鎌倉に武家政権をひらき、続いて奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)を滅ぼして東日本を支配下におさめます。1192年、征夷大将軍となり、名実ともに鎌倉幕府が成立します。源頼朝の死後、妻である北条政子の一族・北条氏が幕府の実権を握りますが、それでも長年続いてきた天皇・貴族の政治にかわり、全く新しい武家政治を始めた人物として、高く評価されています。

弟に理解されなかった? 源頼朝から学ぶ「相手を知る大切さ」

源頼朝というと、弟である源義経(みなもとのよしつね)との確執が有名です。源義経は平氏討伐で活躍したにもかかわらず、評価されることがなく、奥州で命を落としました。そのため、源頼朝に対して「血のつながった兄弟を追放した挙句、奥州に追い詰めて殺した冷たい人物」という印象を持っている人も多いでしょう。

では、なぜ源頼朝は血のつながった弟をこれほどまでに冷遇したのでしょうか? さまざまなことが言われていますが、原因の1つとして「源義経が源頼朝の考えを理解していなかったから」というものが挙げられています。

源頼朝が目指していたのは、朝廷とは別個に政治を行う方法でした。しかし、そんな兄の考えをよそに、源義経は無断で朝廷から勝手に官位を賜ってしまいました。
源頼朝は戦で前線に出るわけではなく、あくまで関東(東国)武士の中心として鎌倉にありました。自分が彼らに擁立されていることを知っていたからです。関東の武士は朝廷からの独立を求めていました。戦で功を挙げることが第一と考える軍人の源義経には理解できなかったのでしょう。このことから2人の間には深い溝ができてしまい、源義経は最終的に自害に追い込まれることになります。

ただ、もし源頼朝と源義経がお互いを理解し合っていたらどのようになっていたでしょうか?

「弟は生粋の軍人だから、自分の考えを理解してもらうのは難しいかもしれない」「兄は武家による政権を作ろうとしているから、自分が朝廷から官位を賜ったらきっと嫌だろう」このように相手を知り、相手の考えを理解していれば、血のつながった兄弟同士で争うことはなかったかもしれません。

人は皆違う生き物です。

自分の考えを理解してくれないからといってすぐに対立するのは、相手を知る努力を怠っているということになります。

むしろ違う考えや違う立場が集まることによって、新しいことが生まれたり成功したりすることも多いです。源頼朝も弟を「考えを理解してくれないから」といって追討するのではなく、むしろそれを理解してあげる道を選んでいたら、鎌倉幕府をより豊かにできていたかもしれません。

考えの違う誰かと一緒に何かをしていくことは難しいですが、人はひとりでは成し遂げられないことも多いでしょう。相手をきらうのではなく、まずは知ることからはじめてみることが大切です。

源頼朝の墓へ行ってみましょう

源頼朝は亡くなったあと、自身の『持仏堂』(じぶつどう)に葬られました。江戸時代までは「御堂」がありましたが、明治時代の「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく・神仏分離令をきっかけに寺院などを壊した運動)で取り壊され、そのあとに神社が建てられました。
現在では『法華堂跡』(ほっけどうあと・源頼朝墓)として、鎌倉市の観光名所となっています。

アクセスマップ

名 称:法華堂跡(源頼朝墓)
住 所:鎌倉市西御門2
電 話:0467-61-3857(鎌倉市文化財課)
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。

お子さまに関するお悩みを持つ
保護者のかたへ

このようなお悩みを持つ保護者のかたは多いのではないでしょうか?

\そんな保護者のかたにおすすめなのが/
まなびの手帳ロゴ ベネッセ教育情報サイト公式アプリ まなびの手帳

お子さまの年齢、地域、時期別に最適な教育情報を配信しています!

そのほかにも、学習タイプ診断や無料動画など、アプリ限定のサービスが満載です。

ぜひ一度チェックしてみてください。