娘の闘いは親の闘い 畑岡奈紗選手

 引退した宮里藍と交代するように、女子ゴルフ界に新星が誕生した。その名は畑岡奈紗。
2017年10月に行われた、国内で最も格式ある「日本女子オープン」で、20アンダーという最少スコアを記録した18歳は、前年も史上初の高校生アマチュアゴルファーとして優勝、2連覇をやってのけた。高校卒業と同時に米国女子ツアーに参戦したため、日本ではまだ馴染みは薄いが、女性版“松山英樹”になるのは時間の問題と言われている。

 最近10代アスリートの活躍は目覚ましいが、多くは3歳ぐらいからその競技に取り組んでいる。だが畑岡がゴルフを始めたのは11歳と遅く、その伸び率は著しい。その鍵はやはり、両親の環境作りにあった。

 茨城県笠間市で、地元企業に勤務する父・仁一さん、ゴルフ場の事務職の母・博美さんの長女として生まれた奈紗は、子どものころから運動神経が優れていた。幼稚園の頃から友だちはほとんど男の子で、かけっこでもサッカーでも誰にも負けなかった。そんな運動能力を買われ、小4から少年野球チームに入団。母が笑いながら言う。
「長女と言うより長男として育てました」
 妹がいるが、両親は「女の子だから何々をしてはダメ」というフレーズは使ったことがないという。父が語る。
「やりたいことは何でもやらせました。親がああしろ、こうしろではなく、子どもが興味をもったものをサポートするのが親の役目と考えていましたから」

 その代わり、責任は自分で取るという考えを浸透させた。
「3歳のころから、駆け出して転んでも手を貸さなかった。転んだのは自分のミス。自分で起き上がりなさい、と」
 幼児のころから自己責任の考えを植え付けたせいか、自立心が旺盛な子どもに育ったが、一度だけ、母がビンタを食らわしたことがある。小学校6年の時だった。母が言う。
「本人は夏休みの宿題をしなかったからと言っていますが、人として間違ったことを口にしたからです。ここは許しちゃいけないと本気で立ち向かいました」

 ただ好きなことを自由にやらせるのではなく、違う道にそれそうになったら力づくでも是正する。その見極めは、常に娘から目をそらさずにいたからこそ判断できた。その一方、共稼ぎとはいえ、ゴルフを続けさせるには結構な費用が掛かる。母が言う。
「預金通帳を眺め、もう無理と何度も思いましたが、娘に止めさせるのではなく、親族に頭を下げる道を選びました」
 そんな両親に育てられた娘は、言葉も満足に喋れず、遠征先のゴルフ場もわからないまま、米国に旅立った。18歳の少女が味わうには余りにも過酷な環境だった。だが娘が帰りたいと口にしない以上、「帰って来い」とは言えない。娘の闘いは親の闘いでもあった。
そして米国ツアーのシーズンが終わって帰国した10月、その鬱憤を晴らすかのように国内大会で2勝。18年も米国女子ツアーに参戦する奈紗は、親の思いをエンジンに世界制覇を目指している。

(文=吉井妙子)

<こどもちゃれんじ>編集部が解説!

“伸びる”子育てポイント

 畑岡選手のお父さまの「親がああしろ、こうしろではなく、子どもが興味をもったものをサポートするのが親の役目と考えていました」という歯切れの良い言葉が印象的です。
 ついつい先回りして子どものやっていることに口出ししてしまいがちですが、その瞬間に子どもの主体性は奪われると言います。子ども自身に考えさせ、決定させ、実行させるそのプロセスが主体性を伸ばす最も重要な親の関わり方だそうです。畑岡選手のご両親はそのスタンスを自然に子育てで体現されているから感服します。
 〈こどもちゃれんじ〉は、毎日の限られた時間でも、お子さまの主体性を引き出し、親子がもっと笑顔になれるような教材づくりを心がけています。短い時間でも、お子さまが自分からやってみたくなるようなしかけや、「できた!」の達成感を味わえるような演出、よりお子さまの自信を育んでいただけるような声がけや関わり方のアドバイスなど、おうちのかたに役立つ情報も毎月お届けしています。

プロフィール


吉井妙子

スポーツジャーナリスト。宮城県出身。朝日新聞社に勤務した後、1991年に独立。同年ミズノスポーツライター賞受賞。アスリート中心に取材活動を展開し2003年「天才は親が作る」、2016年「天才を作る親たちのルール」など著書多数。