“チーム家族”で同じ時間を共有する 大谷翔平 選手

 日本野球界に「二刀流」を認知させ、今季からロサンゼルス・エンジェルスに移籍した大谷翔平。米大リーグでも、野球の神様「ベーブ・ルースの再来」と早くも大きな注目を浴びている。日米の歴史的な野球観を覆すほどの傑物は、いかにして育てられたのか。岩手県水沢市にある実家を訪ねると、いかにもスポーツマンらしいすらりとした夫妻がにこやかに迎え入れてくれた。

 高校時代までバトミントンに親しみ、神奈川県の代表にもなったことがある母の加代子さんが、首を傾げながら言う。
「特別な子育てなんて何もしていないんですよ。かわいい、かわいいと抱きすくめながら育てただけ。ただ、3人きょうだいの末っ子なので、子育ての経験をある程度得て、時間と心に余裕がもてたのが良かったのかも。そして岩手という環境にも育てられました」
 翔平には7歳上の兄、2歳上の姉がいるが、二人は父・徹さんの以前の勤務先である横浜市で生まれた。だが両親は子育ての環境を考え、新たに工場が稼働する岩手への異動を希望。加代子さんが言う。
「私の実家がある横浜にいれば何かと楽だったのですが、子供たちを伸び伸び育てるには、狭い家で暮らすより、自然に囲まれた広い環境の方がいいと思ったんです。親子さんの都合より、子育てを優先しました」
 親の都合より子育てを優先するという考えは、思っていてもなかなか決断・実践できるものではない。だが二人は、この考えを全うし続けてきた。

 自然に恵まれた地域で、翔平は伸び伸び育った。身体を動かすことが大好きで、幼児の頃から水泳やバドミントン、野球など何でもこなした。遊び相手は主に兄。幼い頃の7歳上は、子供と大人ほどに運動機能は違うが、翔平はその差を埋めようと懸命に身体を動かす。それが運動神経の基礎を築くことになった。
 翔平は兄やその友達とやる野球が楽しく、小学2年生の時に「水沢リトル」に入りたいと父にせがむ。リトルリーグに入れるのは3年生からだが、熱意に根負けした父がチームに頼み込んだ。
「小学2年で硬式は体に負担がかかると思いましたが、その代わり僕も覚悟を決めました。リトルリーグのコーチを志願し、仕事を多少犠牲にしてでも、翔平の野球に全力で関わろうと思ったんです」
 高校で甲子園を目指し社会人野球も経験した父が、翔平の才能に気付くのに時間はかからなかった。
「他の子が何時間でもかかることを翔平はすぐにできた。将来のことを考え、右打ちから左にスイッチさせたところ、1年もしないでマスター。僕も高校時代、右から左に変えたけど3年かかりましたから」

 父は息子をプロ野球選手にしようとは考えていなかったが、野球を通じて仲間の大切さを知り、長い人生の中に野球がある生活を送ってほしいと願いながら指導。中学でシニアになると練習は週4回になったものの、父は昼夜二交代の勤務を調整し、徹底して付き合った。
「翔平が野球を始めてから、会社の飲み会や友達との付き合いはしなくなりました。でも、子育てのために無理してそうしたわけではなく、息子たちと野球をやっている方が僕自身も楽しくなった。寝なくとも翔平の野球の練習には足が向きましたから」
 一方母も、家事を済ませると姉を連れ、毎回グランドに足を運んだ。翔平が野球を始めて以降、大谷家から休日は無くなったが、それでも一家はたっぷりと同じ時間を共有。一家で野球を楽しんだことが、翔平に屈託のない笑顔を育み、卓越した技術もさることながら、日米を超え愛される選手として飛翔することになった。

(文=吉井妙子)

<こどもちゃれんじ>編集部が解説!

“伸びる”子育てポイント

大谷選手のお父さまの「飲み会や付き合いよりも息子たちと野球をやっている方が僕自身も楽しくなった」という言葉、とても素敵ですね。
お子さまが興味をもったことに、おうちのかたも一緒に夢中になって取り組むことは非常に大切です。お子さまの好奇心・自主性が引き出されやすくなるという研究結果もあります。
でも頭ではわかっていても、毎日の忙しさから、実践するのは本当に難しいと思います。
〈こどもちゃれんじ〉は、毎日忙しいかたでも親子一緒になって取り組みやすく、親子のやりとりを通じてお子さまが夢中になれる、そんな教材づくりを心がけています。
短い時間でも、できるだけ濃密な体験ができるように、お子さまの反応を引きだす適切な声がけや関わり方のアドバイスなど、おうちのかたに役立つ情報も毎月お届けしています。

プロフィール


吉井妙子

スポーツジャーナリスト。宮城県出身。朝日新聞社に勤務した後、1991年に独立。同年ミズノスポーツライター賞受賞。アスリート中心に取材活動を展開し2003年「天才は親が作る」、2016年「天才を作る親たちのルール」など著書多数。