【幕藩体制の動揺】外国船の来航と幕府の対応が整理できません
18世紀後半から次々にやってきた外国船と,それに対する幕府の対応が整理できません。
進研ゼミからの回答
こんにちは。
いただいた質問にさっそく答えていきますね。
【質問の確認】
18世紀後半から次々にやってきた外国船と,それに対する幕府の対応が整理できません。
【解説】
今回は18世紀後半から19世紀前半までについて整理していきます。では,来航した順にロシア船,イギリス船,アメリカ船,そして押さえておきたい幕府の対応をみていきましょう。幕府の対応では異国船打払令と(天保の)薪水給与令が重要ポイントとなります。
●ロシア船
1792年にラクスマンが根室に来航し通商を求めますが,幕府は鎖国を理由に拒絶します。また,1804年にはロシアの正式な使節であるレザノフが長崎に来航し通商を求めますが,またもや拒絶します。
●イギリス船
1808年にイギリス軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に侵入し,燃料や食糧を要求するという事件が起こりました(フェートン号事件)。
フェートン号事件の後もしばしば日本近海にイギリス船やアメリカ船があらわれ,幕府は燃料や食糧を与えて立ち退かせていましたが,方針を変えて1825年には異国船打払令を出し,外国船は事情を問わずに撃退するように命じました。
●アメリカ船
1837年にアメリカ船のモリソン号が日本人漂流民を送り返すことと通商交渉のため来航しますが,異国船打払令により撃退されました(モリソン号事件)。
このように幕府は外国船の来航に強い態度で対応をしていましたが,アヘン戦争がおこり清が負けてヨーロッパの軍事力がすぐれていることを知ると,方針を変えて異国船打払令をゆるめ1842年に薪水給与令を出し,燃料や食糧を与えるようにしました。しかし,鎖国政策をすてる気はなく,オランダ国王が開国を勧めても拒絶しました。
【アドバイス】
18世紀後半からの外国船の来航は年表をつくり,来航した国や来航地,来航した人物や事件名などを整理し,そして幕府がとった対応をまとめてみましょう。その時,今回は触れていませんが,幕府が国内でとった対応の蝦夷地・樺太の探査や開発,蛮社の獄についても注目してみてくださいね。