【古墳時代】古墳時代の大王家,豪族による部民と土地の支配について
豪族の私有民が部曲,私有地が田荘というのはわかるのですが,名代・子代,屯倉,田部のつながりがわかりません!
進研ゼミからの回答
こんにちは。
いただいた質問にさっそく解答させていただきます。
【質問内容】
豪族の私有民が部曲,私有地が田荘というのはわかるのですが,名代・子代,屯倉,田部のつながりがわかりません!
【質問への回答】
豪族が私有していた部曲や田荘については理解できているのですね。それと同じようにヤマト政権の首長である大王家も直轄民と直轄領(つまり,直接管理する部民と土地)を持っていたと考えましょう。
ヤマト政権は,大王家を中心とする諸豪族の連合政権です。勢力拡大の中心となったのは大王家であり,豪族のリーダーともいうべき存在だったのですが,大王家も豪族の私有地・私有民と同様の直轄地や直轄民を持っていたのです。
名代・子代は大王家の直轄民のことです。
名代は,大王の宮号を部名として,宮の経営に必要な伴(世襲的職業で奉仕する団体)とその生活のための物資を貢納する部民です。
子代は王族の名を部名とし,王族の子女の養育のために設けられたとされる部民です。
「名代・子代」と連称されたのは,同ーの性格と見なされたためと思われるのですが,両者の関係は不明な点が多いのです。
高校生の学ぶ日本史の中では,「名代・子代」をそれぞれ区別する必要はなく,両方まとめて大王家(ヤマト政権)の直轄民として押さえておくことで十分です。
屯倉は初めは大王家により開発された畿内の大王家領でしたが,5世紀末ころからは地方豪族の反乱後の接収地に設けられるなど,ヤマト政権の勢力を浸透させていく機能を果たしました。このころには大王家のというよりは政府の直轄領的な性格となったのです。
「屯倉」に関しても,以上の経緯はありますが,ヤマト政権の直轄領として覚えておけば十分です。
屯倉の田地で耕作したのが田部と呼ばれる部民です。地方豪族の私有民や渡来人が充てられ,朝廷の管理下にありました。田部は大王家の直轄民というよりは,ヤマト政権の所領を耕作する部民として「名代・子代」とは区別して押さえておくといいですね。
【学習アドバイス】
ヤマト政権の支配や氏姓制度はわかりにくいことが多いですが,教科書などを利用して理解して おきましょう。これからも「進研ゼミ高校講座」を利用して,日本史の力を高めていってくださいね。