加賀の一向一揆はなぜおきたのか?
加賀の一向一揆はなぜおきたのですか?
守護大名はなぜ倒されたのですか?
進研ゼミからの回答
一向一揆は、一向宗(浄土真宗)の信徒たちがおこした一揆
加賀では一向宗を弾圧した守護大名が倒された
■加賀の一向一揆
加賀(石川県)の守護大名・富樫政親(とがしまさちか)が一向宗(浄土真宗)を弾圧したことに反発した信徒たちが、1488年におこした一揆です。富樫政親を滅ぼした後、信徒たちは約100年にわたり自治を行いました。
■一揆の前後の流れを確認しましょう
室町時代、一向宗(浄土真宗)は、蓮如(れんにょ)の活動によって北陸・近畿地方の武士や農民の間に急速に広まっていました。
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応仁の乱(1467年~1477年)の抗争時、加賀の富樫政親は一向宗を味方につけ、敵対する勢力を退けました。
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しかし、勢力を強める一向宗に危機感を抱き、今度は一向宗を弾圧しようとしました。
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これに反発した信徒たちは、1488年に守護大名・富樫政親を滅ぼし、加賀で自治を行いました。
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信徒たちによる自治は、16世紀に織田信長が各地の一向一揆を平定し、石山本願寺(大阪府)を降状させるまで、約100年にわたって続きました。自治が続いた背景には、室町幕府の衰退と、一向宗の支えがありました。