【東アジア世界の発展(宋~元)】宋と周辺国家の関係について
宋の時代に,周辺に位置していた遼・西遼・西夏・金・吐蕃などの国家の関係図がいまいち上手くつかめません。それらの各民族の国がどう関係しあってどう滅亡したのか,そして北宋・南宋にどう影響を及ぼしたのかを大体の流れで教えてください。
進研ゼミからの回答
【質問の確認】
宋の時代に,周辺に位置していた遼・西遼・西夏・金・吐蕃などの国家の関係図がいまいち上手くつかめません。それらの各民族の国がどう関係しあってどう滅亡したのか,そして北宋・南宋にどう影響を及ぼしたのかを大体の流れで教えてください。
【解説】
【遼(契丹)】
北宋は960年に建国しますが,北方ではモンゴル系の契丹(キタイ)の部族を統合した耶律阿保機が遼を建国しており,936年には北宋と接することになる華北の燕雲十六州を獲得していました。
燕雲十六州は,もともとは中国の領土であるとして,宋は建国した後に,この地の奪回をはかるのですが果たせずに,1004年に澶淵の盟という和議(北宋を兄,遼を弟とみなす)が結ばれました。
毎年,多額の絹・銀を北宋が贈ることで,遼は北宋に侵入しないというものでした。
【西夏】
また,北宋の西北ではチベット系のタングートが強大化して,1038年に西夏を建国します。西夏は遼と結んでしばしば北宋に侵入しましたが,北宋と和議を結びました。西夏が臣下となるかわりに,毎年多額の絹・銀を北宋が贈り,西夏は北宋に侵入しない約束をしたのです。
【金(遼の滅亡)】
12世紀になると,中国東北地方では遼の支配下にあった女真族が1115年に独立して金を建国しました。
その後,金は北宋と同盟を結び1125年に遼を滅ぼします。
しかし,金が燕雲十六州を占領したことで金と北宋の対立が深まり,金は北宋の都を攻撃し占領しました。このとき徽宗など皇族が捕虜となって北方に連れ去られた(靖康の変)ために,徽宗の子の高宗は南方に逃げ臨安に都を置きました。
これが南宋の建国(1127年)です。
南に逃げた南宋の政界では,金に対して戦うか和平を求めるかという2派が対立するのですが,和平派が主導権を握り,金に毎年,多額の銀や絹を贈り侵入を防ぐという和議を結びました。
【西遼】
金により遼が滅亡した時,遼の皇族の耶律大石は部族を率いて西に逃げ,1132年にカラ=ハン朝を滅ぼして西遼(カラ=キタイ)を建国しました。
のち,モンゴルのチンギス=ハンが西遼の北方にいたナイマンを攻撃した時,ナイマンの王子は西遼に侵入して王位を奪い,西遼王と称しました。
北方民族の成長と宋の文治政治による軍事力の弱体化を背景として,宋と周辺の国々との関係がポイントとなります。
宋にとっては,北方民族の侵入を防ぐことが必要であったために,北宋は遼や西夏と和議を結び,南宋は金と和議を結ぶことで平和を維持しようとしたことをおさえておきましょう。
【モンゴル帝国】
モンゴル高原では遼が建国したあとは,多くの部族が遼に服属していました。
遼を滅ぼした金は,モンゴルが台頭することを恐れてモンゴルの分裂をはかりましたが,モンゴルはテムジンのもとに統一され,彼はチンギス=ハンとしてモンゴル帝国を建国しました。
チンギス=ハンは1218年にナイマンを滅ぼし,ホラズム=シャー朝に遠征をおこない滅ぼしました。
西夏は遠征に参加しなかったという理由で,1227年に滅ぼされました。
さらに金の攻略に向かうところで,チンギス=ハンは没しますが,子のオゴタイが受けつぎ,南宋と共同して1234年に金を滅ぼしました。
吐蕃はチベットにおいて7世紀に建国した国ですが,国力が強大となり中国に侵入したのは唐の時代です。以後は王国としては分裂しますが,即位する前のフビライに攻略され,属国となります。
1271年にはフビライが国名を元と改めました。
南宋は,外交費の増大や改革の方針の違いで政界に争いがおきたことなどから国力が衰え,1279年に元に滅ぼされました。
周囲の国々を滅ぼしたモンゴル帝国は,元と諸ハン国のゆるやかな連合体となっていることをおさえておくといいですね。
【アドバイス】
大きな流れがつかめたら,もう一度教科書やチャレンジを確認して,知識をさらに固めていきましょう。教科書を読みながらポイントになる部分に線を引くなどして確認していくと,よりわかりやすくなりますよ。