【中国の思想II】性即理と心即理の違いについて
人間本来の性を「理」とする性即理と、人の心はもともと「理」を備えているとする心即理の違いが分かりません。
「本来の性」と「心」はどう違うのですか?
進研ゼミからの回答
こんにちは。倫理の学習に頑張っていますね。
ではいただいた質問にお答えします。
【質問内容】
人間本来の性を「理」とする性即理と、人の心はもともと「理」を備えているとする心即理の違いが分かりません。
「本来の性」と「心」はどう違うのですか?
【質問への回答】
まず、性即理と心即理について説明しますね。
●性即理
朱子(朱子学)は理気ニ元論を唱え、万物は理と気によって成り立つとしました。
そして、朱子は、理はあらゆる事物を成り立たせる根拠であり、従うべき規範であるとしました。
この考えにたって、朱子は人間の心を人間に本来的に備わっている道徳的な本性と、各人がもっている気(情:感情や欲としてあらわれる心の動き)とに分け、本性に心の本体としての理を認めようとしました。
そして、天は理そのものであり、天からあたえられた人間の本性(本質)も理であるとして(性即理)、「人間本来の性」(人間の本性)を理であるととらえたのです。
●心即理
王陽明(陽明学)は、朱子学が人の心を性と情(気)に分けることは、心を解体することだと批判しました。
そのうえで、王陽明は理を人間の内部に見いだし、生まれながらの心がそのまま理であるとしたのです。つまり、人の心はもともと理を備えている(心即理)ということです。
性即理と心即理の違いは、性即理が心を性と情に分けて性(人間の本性)を理としたのに対し、心即理は、心は一つであるとし、心そのものを理としたことです。また、朱子学が理を天地万物に内在する客観的なものとしてとらえたのに対し、陽明学は理を人間の心のうちに見いだし、主体的な心が理を生みだすとしました。
また、朱子学の「本来の性」と王陽明の箇所に記載されている「心」の違いについてですが、上述したように、朱子学は「人間本来の性」(人間の本性)は万物を支配する客観的な理で、心の一部(本質)であり、一方、王陽明は生き生きと働く現実の心そのものが理であるとしたものです。
【学習アドバイス】
あなたが性即理と心即理の違いに注目したように、朱子学と陽明学は比較して学ぶことが大切です。ゼミ教材の赤字に注目しながら、その思想を押さえていきましょう。
また、演習問題を通して、知識の定着化と実戦力を養っていきましょう。