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保元の乱とは|保元の乱の経緯5選や保元の乱から学べることも紹介

保元の乱とはどのような戦いだったのでしょうか。この記事では保元の乱の概要や経緯、保元の乱後の流れ、保元の乱と共に覚えておくと役立つ「平治の乱」についてご紹介していきますので、保元の乱とはどういうものだったのか理解を深めてみましょう。

保元の乱とは

保元の乱とは1156年に起こった後白河天皇(ごしらかわてんのう)と崇徳上皇(すとくじょうこう)による権力争いです。

この乱により、朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方にわかれて政変が行われました。また、この戦いは追い詰められ、立場が危うくなった崇徳上皇が起こしたものでしたが、この戦いで崇徳上皇方は敗れ、讃岐へと島流しの刑に処されることになりました。

崇徳上皇について

崇徳上皇は日本の第75代天皇で、鳥羽天皇の第一皇子です。

崇徳上皇は鳥羽上皇の実の子ではありませんでした。そのため、鳥羽上皇は1141年に崇徳天皇を退位させて近衛天皇(このえてんのう)を立て、さらに近衛天皇が亡くなったあとは崇徳上皇の弟である後白河天皇を皇位に就かせ、後白河天皇の子である守仁親王を皇太子にしました。

このことから、鳥羽上皇が亡くなると崇徳上皇は後白河天皇から政権の奪取に乗り出しました。

後白河天皇について

後白河天皇は日本の第77代天皇で、鳥羽天皇の第四皇子です。

崇徳上皇の弟で、母親違いの弟だった近衛天皇が急死したことにより、後白河天皇の子どもである守仁親王が即位するまでの中継ぎとして皇位を継ぐことになりました。これは、鳥羽上皇が将来後白河天皇を上皇にして政治を行わせるためでした。

その後保元の乱が起こりましたが、夜襲にあった崇徳上皇側が敗退したことで、戦いは後白河天皇の勝利に終わりました。

保元の乱の経緯5選

保元の乱とはどのような流れで起こったのでしょうか。

兄弟である崇徳上皇と後白河天皇の権力争いは、崇徳上皇への鳥羽上皇の冷たい扱いなどが起因しているのは明らかです。それでは、どのような経緯で保元の乱が起こることになったのでしょうか。

ここでは保元の乱の経緯についてご紹介していきます。

保元の乱の経緯1:鳥羽院の崩御

1156年に政治の実権を握っていた鳥羽院が亡くなりました。

崇徳天皇が即位している間、白河法皇(しらかわじょうこう)と鳥羽上皇が院政を行って政治を執り行っていました。鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて近衛天皇を立てることで政治の実権を握り、近衛天皇が亡くなった後は後白河天皇を皇位に就かせました。

その後鳥羽院は病に倒れましたが、見舞いに訪れた崇徳上皇は鳥羽院の遺体を見ることすらできませんでした。

保元の乱の経緯2:崇徳院との確執が悪化

後白河天皇と崇徳院の確執が深まっていきます。

鳥羽院が崩御すると、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す(崇徳上皇と藤原頼長が軍を率いて反乱を起こそうとしている)」という噂が流れ始めます。そのため、後白河天皇は頼長が兵を集めないようにして、さらに財産も没収します。

しかしこの噂は、後白河天皇の側近の信西(しんぜい)が流したものだと推測されています。

保元の乱の経緯3:朝廷の分裂

後白河天皇側と崇徳院側で朝廷が分裂することになります。

噂が流れて後白河天皇により藤原頼長は財産を没収され、追い詰められた崇徳院と頼長は挙兵するしかない状態になります。

そして朝廷の面々も後白河天皇側と崇徳院側にわかれ、皇族や貴族、公家、源氏や平家、親族などが両陣営で戦いました。

崇徳上皇派

崇徳上皇派には藤原頼長や源為義(みなもとのためよし)などがついていました。

崇徳上皇派は貴族では左大臣の藤原頼長、左京大夫の藤原教長、右馬権頭の藤原実清、左近衛権中将の源成雅などがついていました。

また、武士では前大夫尉であった源為義やその息子の源為朝、清盛の叔父である前右馬助の平忠正、右衛門大夫の平家弘、多田荘の荘官である源頼憲などがつくことになりました。

後白河天皇派

後白河天皇派には藤原忠通や信西などがついていました。

後白河天皇派は貴族では関白の藤原忠通、側近である信西、右大臣の徳大寺実能などがついており、武士としては当時もっとも有力だった安芸守の平清盛、崇徳上皇派となった源為義の長男である源義朝、右衛門尉の源義康、兵庫頭の源頼政などがついていました。

さらに、清盛軍の武士や義朝軍の武士として多くの兵士が集いました。

保元の乱の経緯4:乱が勃発する

崇徳上皇方の源頼長が挙兵し、保元の乱が勃発します。

都での噂から拘束されることを恐れた崇徳上皇は鳥羽田中殿から脱出し、源頼長は宇治から上洛して貴族や武士を集めます。一方、後白河天皇方も崇徳上皇の動きを察知し、多くの有力な武士を動員します。

これにより、保元の乱が勃発することになります。

保元の乱の経緯5:1日で乱が終結する

後白河天皇方の夜襲により、保元の乱は1日で終結することになります。

翌日未明、後白河天皇方の平清盛が率いる300余騎、源義朝率いる200余騎、源義康率いる100余騎が出兵し、戦いの火ぶたが切って落とされました。

この戦いでは一進一退の攻防となりましたが、その後、藤原家成邸に放たれた火が白河北殿に燃え移ったことで上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や源頼長は敗走することになりました。

保元の乱後の流れ3選

保元の乱の後にはどのような流れになったのでしょうか。

保元の乱で敗北した崇徳上皇が出頭すると、それにともなって藤原教長や源為義などの上皇方についていた貴族や武士も投降しました。特に藤原教長は厳しい尋問を受けたと言われています。

ここでは保元の乱後の流れについてご紹介していきます。

保元の乱後の流れ1:両軍に対する厳しい処罰が下る

保元の乱の後には両軍に対して処罰が下りました。

頼長の子息や藤原教長といった貴族、源為義や平忠正、平家弘といった武士には罪名の下され、特に武士に対する処罰は厳しく、忠正、為義、家弘は一族もろともに斬首にされました。

天皇方は乱に勝利したことで反対勢力を排除することができましたが、数百年ぶりに実施された死刑は人々に衝撃を与えることになりました。

保元の乱後の流れ2:崇徳上皇が島流しされる

保元の乱の後には崇徳上皇は讃岐へと配流されました。

天皇や上皇の島流しは、淳仁天皇の淡路への島流し以来、およそ400年ぶりのことでした。また、これ以来崇徳上皇は二度と京の地へ戻ってくることはできず、島流しから8年後の1164年にこの世を去ることになりました。

保元の乱後の流れ3:武士たちが必要とされる時代が到来する

保元の乱の後、武士の時代が訪れることになります。

保元の乱では朝廷での内部抗争を解決するために、平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしともなどといった武士の力を借りました。そのため、この乱以降、武士の存在感が増すことになります。

そしてこの保元の乱が、この後の約700年にもわたる長い武家政権へとつながるきっかけとなりました。

保元の乱と共に覚えておくと役立つ「平治の乱」とは

保元の乱は「平治の乱(へいじのらん)」とセットにすることで覚えやすくなります。

平治の乱とは源義朝と平清盛が政権を争った政変です。保元の乱では後白河上皇方について戦った源義朝と平清盛ですが、その後の平治の乱では敵味方にわかれて争うことになります。

平治の乱は保元の乱での源義朝と平清盛の恩賞に差があったことで、源義朝が不満を募らせたことがきっかけだと言われています。

平氏政権が樹立する

平治の乱で平家が源氏を倒したことで、平氏政権が樹立します。

1159年12月9日、平清盛が京を離れていたすきを狙い、源義朝と藤原信頼(ふじわらののぶより)が後白河上皇の側近である信西を襲撃し、自刃に追い込みます。

さらに天皇と上皇を幽閉しますが、京に戻った平清盛が天皇と上皇を奪い返したことで形勢が逆転し、この後は兵力差によって戦いは平家の勝利に終わりました。

保元の乱から学べることとは?

保元の乱は親子の行き違いによる悲劇です。

また、親子の対立に乗じて自分たちの権力を拡大しようとする人々が集まってきたことでより拡大していきました。

現在でも最初は小さな対立だったものが、雪だるまのように大きくなっていって大きな悲劇に繋がることはあります。誰かと誰かが対立しているとき、どちらかに加勢して争いを大きくするのではなく、互いの意見を踏まえた上でより良い関係を作っていくための提案や働きかけすることが大切なのではないでしょうか。

保元の乱について理解しよう

保元の乱は崇徳上皇が起こした弟である後白河天皇との権力争いです。

しかしその裏には、親である鳥羽上皇に天皇という地位から退位させられ、その後もないがしろにされたという思いが起因しています。また、戦いを起こした崇徳上皇は後白河天皇方の武士の夜襲に遭い、たった1日で敗退することになります。

そしてその後、崇徳上皇は讃岐へ島流しの刑に処され、二度と京へ戻ることはできませんでした。

崇徳上皇がまつられた白峯神宮に行ってみましょう

白峯神宮は讃岐で没した崇徳上皇がまつられている神社です。

白峰神宮は明治天皇が讃岐の「白峯陵(しらみねのみささぎ)」から京都へ崇徳上皇の御霊をうつして創建しました。

蹴鞠(けまり)宗家の飛鳥井家(あすかいけ)の屋敷跡地に、現在の白峰神宮が建てられております。摂社には蹴鞠の守り神である「精大明神(せいだいみょうじん)」がまつられています。そのため、現在ではサッカーなどのスポーツ関係者が参拝に訪れています。

アクセスマップ

名 称:白峯神宮(しらみねじんぐう)
時 間:8時00分~17時00分
休 日:無休
料 金:無料
住 所:京都市上京区飛鳥井町261
電 話:075-441-3810

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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