

壇ノ浦の戦いとは?
壇ノ浦の戦いとは、平安時代の末期に勢力を拡大していた武家の平氏と源氏との争いが終結した戦いです。
壇ノ浦の戦いの舞台は「長門国赤間関壇ノ浦」(ながとのくにあかまがせきだんのうら・現在の山口県下関市)。壇ノ浦は下関市と北九州市の間の狭い海峡で、非常に流れが早い難所です。
両陣営の水軍の船はおもに弓矢等を用いて戦いました。源氏側は水軍800艘、平氏側は500艘。海戦は平氏のほうが有利といわれていましたが源氏水軍は潮流の変化に乗じて攻撃を仕掛けて、勝利をおさめます。
壇ノ浦の戦いが起こる前の3つの状況
源氏と平家の関係
壇ノ浦の戦い以前から源氏と平家は戦争状態にありました。もともと、源氏・平家ともに朝廷を守る武家として共に戦ったこともあるのですが、政局の変化によって対立を深めます。
平治の乱という戦いで、源氏は平氏勢力に敗れ一時は一門の分断が余儀なくされます。平治の乱から後白河法皇(ごしらかわほうおう)による平氏の重用が続き、平氏は栄華を極めました。源氏一門は頼朝を筆頭に身を潜めていましたが、平氏を討伐すべく蜂起。源平の戦いが始まります。
朝廷と平家の関係
平安末期の朝廷は、「院政」が敷かれていました。天皇の父が、「上皇」や「法皇」として権力を握っていたのです。平氏が隆盛を極めていた時代は、後白河上皇が朝廷の実権を握っていました。当初は平氏と良好な関係を維持していた後白河法皇ですが、その後の平氏の勢力拡大に危機感を覚えるようになります。
そして後白河法皇は、打倒平氏を画策するのですが、平氏のリーダーである平清盛に発覚してしまい失敗。その後も後白河法皇は、平氏を倒すべく策を巡らしますが平清盛によって押さえ込まれ、御所に閉じ込められてしまいました。
一方で、平清盛は天皇の妻として一族の女性を嫁がせる外戚政策を推し進めました。平清盛の娘である徳子は高倉天皇に嫁ぎ、「安徳天皇」として即位しています。
平氏による院政の封じ込めと、天皇家の掌握を快く思わない人物は後白河法皇だけではありません。後白河法皇の子どもである以仁王(もちひとおう)も平氏に反感を抱いていました。
源平の戦いの火蓋が切られたきっかけは以仁王です。1180年に以仁王と源頼政(みなもとのよりまさ)が挙兵を呼びかけたのです。
平家が都落ちをした原因
源平の戦いは序盤こそ平氏が優位に立ちますが、徐々に源氏が優勢になります。平氏の没落に大きな影響を与えたのが平清盛の死と飢饉です。
そこで1183年7月、平氏は都である京都から離れ西日本へと逃げて勢力を立て直そうと考えたのです。この際に、平氏は安徳天皇を連れ出し、三種の神器を持ち去りました。
三種の神器とは、八咫鏡(やたのかがみ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の3点セットです。これらは皇位の象徴であると伝えられており、皇統の正当性を表す重要な宝物です。
壇ノ浦の戦いの前に起きた2つの戦い
一ノ谷の戦い
壇ノ浦の戦いに至るまでに、平氏と源氏はいくども衝突しています。平氏の都落ち後に源氏が大きな勝利をおさめたのが一ノ谷の戦いです。
一ノ谷は現在の兵庫県の崖と海に挟まれた場所。攻撃が難しい場所でしたが、源頼朝と義経の挟み撃ちにより、平氏は敗走。この際に源義経が行ったのが鵯越(ひよどりごえ)の奇襲です。平氏は屋島に逃げ込みます。
屋島の戦い
屋島の戦いは、一ノ谷の戦いで敗走した平氏が陣地を張った屋島で繰り広げられた戦いです。屋島は現在の香川県に位置します。ここでも平氏は敗走。有名な那須与一(なすのよいち)が扇を射たエピソードの舞台は屋島の戦いです。
壇ノ浦の戦いのポイント7つ
壇ノ浦の戦いが起きた年代
壇ノ浦の戦いが起きたのは1085年3月のことでした。ここに至るまでの年号をまとめておきましょう。
- 1156年 保元の乱
- 1159年 平治の乱……源氏の敗北
- 1167年 平清盛が太政大臣に任命される
- 1177年 後白河法皇による打倒平氏の陰謀が発覚する(鹿ヶ谷の陰謀)
- 1179年 平清盛が後白河法皇を幽閉
- 1180年 以仁王挙兵、源頼朝・木曽義仲の挙兵、富士川の戦い
- 1183年 倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い
- 1184年 一の谷の戦い
- 1185年 屋島の戦い、壇ノ浦の戦い
海上で戦った理由
壇ノ浦の戦いが海上で行われた理由は、平氏が海戦を得意にしていたことにあります。総大将平宗盛(たいらのむねもり)が率いる平氏は、平清盛の頃から瀬戸内海の航路を整備するなど海に馴染みのある一族でした。
一方で源氏は関東地方が本拠地で陸上戦を得意としています。
そこで平氏は自軍が優位に立てる海上戦を選択したのです。拠点にしていた屋島を攻撃されて行き場を失った平氏が次の拠点にしたのは山口県下関市の「彦島」でした。彦島は小さな島で退路がありませんので、得意な海上戦を選択したとも考えられています。
源義経の戦い方
源義経は常識に囚われない柔軟な戦い方が有名です。一の谷の戦いでは、平氏を攻撃するために、到底駆け下りることができないと思われた急な斜面を馬で駆け下りて奇襲を成功させました。
このときに義経は崖を降りている鹿を見て、「鹿が下りられるなら馬も下りられるはず」と考えたと伝えられています。崖から源氏軍が現れるとは思ってもみなかった平氏軍はたいそう驚いたことでしょう。
また屋島の戦いでも、暴風雨にも関わらず海を渡って攻撃を仕掛けたり、村に火を放って敵を驚かせたりと、当時の人々が思いも寄らない奇想天外な発想で攻撃します。
壇ノ浦の戦いでは、当時は禁じ手とされていた水夫への弓矢による攻撃も実施したといわれています。
また、「八艘飛び」の伝説も壇ノ浦の戦いで生まれました。源義経は平氏軍の武将平教経(たいらののりつね)に狙われているとわかると、船から船へと次々と飛び移って、八艘分もの船を飛んだというのです。
伝説ではありますが、義経の常識に囚われない戦い方を物語るエピソードの1つです。
平家が負けた原因
源平の争乱で、最終的に平氏の敗北の原因は複数ありますが、1つは平清盛の死亡、もう1つは急激な戦力の拡大にあると考えられています。
清盛亡き後は、平清盛の息子である平宗盛(たいらのむねもり)が総大将として平氏軍を指揮していました。壇ノ浦の戦いにおいては、その弟平知盛(たいらのとももり)が指揮をとっていたといわれています。
壇ノ浦の戦いに限っていえば「潮流の変化」にうまく対応した源氏と、対応できなかった平氏の敗因だとする説があります。平氏一門の歴史が記された平家物語や、鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡(あづまかがみ)によると、序盤は平氏にとって有利な潮の流れであったため、戦いを有利に進めていました。ところが時刻が進み潮流が変化すると、潮流の変化に源義経がうまく対応して平氏を追い詰めたというのです。
敗北が決まり海に身を投じた人物
壇ノ浦の戦いで平氏の敗戦が決定的になると、平氏軍に連れ出されていた8歳の安徳天皇は祖母である二位尼(にいのあま)に抱きかかえられて、壇ノ浦の冷たい海に身を投じます。また天皇や二位尼に付き従っていた女官たちも壇ノ浦に入水しました。
壇ノ浦の戦いで命を落とした平氏一門は壇ノ浦を広く見渡せる赤間神宮で手厚く祀られています。
源氏が壇ノ浦の戦いで失敗したこと
源氏は壇ノ浦の戦いで勝利をおさめましたが、一点だけ失敗があります。それが三種の神器を失ったことです。
平氏一門は都落ちの際に、安徳天皇とともに三種の神器を持ち出しました。そして壇ノ浦の戦いで安徳天皇とともに海に沈んでしまいます。
源氏は三種の神器を必死に探しますが、草薙剣だけは見つけることができませんでした。三種の神器は皇位の正当性を示す宝物ですので、揃っていなくてはなりません。結局今日まで草薙剣は見つかっていません。
壇ノ浦の戦い後
壇ノ浦の戦いが終結しても、しばらくは政治が安定しませんでした。後白河法皇は源義経に源頼朝を討つようにと命令を出しましたが、源頼朝に圧力をかけられて、今度は義経を討伐するようにと命じています。結局源義経は奥州藤原氏を頼るものの、源頼朝を恐れた藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の攻撃を受けて自害しました。
壇ノ浦の戦いから学べること
壇ノ浦の戦いからは、「失敗したと思ったら早めに対処することの大切さ」と「臨機応変に対応することの重要性」がわかります。
失敗したときに素早く対処すれば傷は浅い
平氏一門は都落ちをして、各地で戦に敗れ西へ西へと逃亡して壇ノ浦で平氏一門はほぼ命を落としました。
歴史に「もしも」は禁物ですが、彼らが早い段階で時勢を見極め源氏一門への降伏を宣言していれば、多くの命が失われることはなかったでしょう。幼い安徳天皇や女官たち、平氏一門の女性たちの身も助けられていたかもしれません。
これは日常生活でもいえることです。自分の判断が誤りであったと気づいた時、失敗したときに先伸ばしにすることなく、素早く対処することで問題の解決は容易になります。
たとえば、「給食袋を川に落としてしまった」という大失敗をしたとき、すぐに学校や保護者に伝えれば、どうすればよいかを指示してもらえますし、怒られることもありません。
しかしながら、「怒られたらどうしよう」と、給食袋を川に落としたことを隠しておくと、後になって先生や保護者に知れてしまい、「どうして黙っていたのか」と責められるかもしれません。
失敗したと思ったらすぐに相談をして正しく対応することで、さらなる悲劇を防ぐことができます。
臨機応変に対応することの大切さ
壇ノ浦の戦いのみならず、平家の都落ち以降の源氏の戦いでは源義経が活躍しています。
源義経といえば、常識に囚われない戦い方で知られますが、「臨機応変に対応している」といういい方もできます。
目の前の戦況を正確に把握した上で、最適な解決方法を考案しているのです。セオリー通りに行動していれば、鵯越の奇襲による一の谷の戦いでの勝利や、屋島の戦いでの勝利は望めなかったかもしれません。
私たちが日々暮らすなかでも、臨機応変な対応が求められることがあります。「無理だな」と感じたときでも、「何か方法はないか」と柔軟に考えることで、解決策が見つかるはずです。
源平合戦の息吹を感じる「壇ノ浦古戦場跡」へ行ってみましょう

源平合戦の最後の舞台は壇ノ浦古戦場跡として整備されています。源義経と平知盛の像や碑文があり、古戦場跡からは源平が激しい争いを繰り広げた関門海峡を一望できます。
また、壇ノ浦古戦場跡から海沿いを10分ほど歩くと赤間神宮(あかまじんぐう))という神社があります。赤間神宮には安徳天皇の御陵や平氏一門の墓、耳なし芳一像など、壇ノ浦の戦いにまつわる史跡が数多く残されていますので、ぜひ足を伸ばしてみましょう。
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アクセス
名 称:壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)
※情報は変更されている場合があります。
住 所:山口県下関市みもすそ川町1番
電 話:083-231-1350(下関市観光政策課)
監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。