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北条政子とはどういう人物? 性格を推測できるエピソードや生い立ち

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歴史上の重要人物として知られる北条政子(ほうじょうまさこ)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻として、鎌倉時代の流れに深く関わっています。その北条政子はどうして鎌倉幕府の陰の支配者としてのぼり詰めたのでしょうか。彼女の人柄とカリスマ性を知ることができる逸話をご紹介します。

北条政子とはどういう人物?

北条政子とは、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の正室であり、頼朝の亡き後幕府の実権を握った人物です。有名な人物であるため、歴史の教科書にもその名前が載っています。

当時、女性が活躍できる社会ではありませんでしたが、北条政子の名前は今でも語り継がれています。彼女の逸話や偉業をご紹介します。

生い立ち

北条政子は、伊豆の国の有力者である北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれました。

当時平治の乱に敗れた源氏は処刑されたり流罪にされたりし、北条政子の父、北条時政は罪人である源頼朝の監視役としてあてがわれます。しかしその後、その頼朝と恋に落ちるのです。

北条政子の性格を推測できる4つのエピソード

北条政子には数々の逸話があります。逸話の中には、北条政子の人柄をうかがい知ることができるエピソードは多いでしょう。

ここからは、北条政子の性格を推測できる代表的な逸話をご紹介します。

北条政子のエピソード1:反対を押し切って頼朝と結婚した

北条政子は平治の乱に敗れて罪人となった源頼朝の監視役(北条時政)の娘でしたが、やがてふたりは恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚したというエピソードがあります。

豪族の娘である北条政子が罪人と結婚するとなっては、周囲は当然結婚を反対するでしょう。北条政子は父親があてがった婚約者のもとから逃げ出し、頼朝とともに歩む道を選びました。父親は北条政子の情熱と行動力に負け、ふたりの結婚を許し、ふたりは結婚しました。

北条政子のエピソード2:実の息子を幽閉した

北条政子は頼朝との間に跡取りとなる長男、頼家(よりいえ)を生みます。しかし、北条政子は長男である源頼家を伊豆の修善寺に幽閉してしまうのです。

跡取りとして期待された頼家でしたが、乳母(めのと)夫婦を重用して、のちに乳母の夫の娘との間に長男をもうけます。それを機に乳母の夫一族の勢力が増してしまい、北条政子は脅威を感じたとされています。

頼家は長男であるにもかかわらず、北条政子の命令によって出家させられることになったのです。その結果伊豆の修善寺に幽閉され、殺害されます。

北条政子のエピソード3:父親を出家させて追放した

息子の実朝に権力を握らせるため、北条政子は父である北条時政さえも追放してしまったというエピソードがあります。長男である頼家を幽閉したのち、その後将軍に就任したのは政子の次男の実朝でした。

その補佐役となる執権に、北条政子の父である時政が就いたのです。しかし時政は、将軍である実朝を差し置いて、時政の重用する御家人を将軍にしようとします。

父の企みに気付いた北条政子は息子追放の危機に脅威を覚え、父である時政を出家させ、政治から追放してしまいました。

北条政子のエピソード4:政治の実権を握って尼将軍と呼ばれた

北条政子は息子の死や父の追放を経て、鎌倉幕府の実権を握ります。

3代将軍に就いた実朝が暗殺されてしまい、北条政子はその後を継ぐ人を探して奔走します。最終的には有力者である藤原家から、2歳の子供を将軍として迎え入れることにしました。

しかし幼児に政治は不可能であるため、その後ろ盾となった北条政子が実権を握ることになります。そのため、出家して尼となっていた政子は「尼将軍」と呼ばれるようになりました。

北条政子が活躍した承久の乱とは?

承久の乱の陰にも、北条政子の活躍がありました。承久の乱とは、1221年に朝廷側である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、幕府側である北条義時(ほうじょうよしとき)を討伐するよう命じて起きた争いのことです。

3代将軍である実朝が暗殺されてしまい、混乱していた御家人に対して朝廷側は幕府を討つように命令しました。当時の武士にとって朝廷とは絶対的な存在であり、いくら幕府に恩義があるとは言え逆らいづらい命令でした。

幕府と朝廷の板挟みに遭ってしまった御家人に対して、北条政子はこのような呼びかけをしました。

「頼朝公から受けた恩は、山よりも高く海よりも深い。悪いのは、上皇ではなく上皇をそそのかす上皇の周りの人間です。将軍が残したこの幕府を守り抜きましょう。朝廷につきたい者は、朝廷についてもいいです。」

朝廷の命に背くことを恐れる武士の気持ちを汲んだ、北条政子の名言です。あくまで悪いのは上皇ではなくその周りで上皇を動かしている人間なのだ、その人間を討つのだと、あくまで上皇が敵ではないことを示し、幕府側につく恐怖を和らげたのです。

幕府と御家人が築いてきた絆を訴え、そして朝廷に歯向かう恐怖を和らげるこの言葉に、御家人は幕府につく決心をします。この当時女性が武士を動かすのは困難であったにもかかわらず、北条政子のリーダーシップが現れている有名な逸話でしょう。

北条政子から学べること

北条政子の当時の立場や逸話から、力強いリーダーシップを学べるでしょう。演説家として有名な北条政子ですが、この当時女性が武士である御家人を動かすようなことは珍しく、北条政子の話術とカリスマ性で人を動かしたことにほかなりません。

今でこそ女性のリーダーは様々な世界で生まれていますが、頼朝の正妻であっても女性である北条政子が御家人たちをまとめあげ、決意させたことは当時の女性の社会的立場を考えると、とても難しいことがわかるでしょう。

しかし、リーダーシップと巧みな話術、説得力があれば、立場などは関係なく人を動かすことができるのです。

北条政子について理解しよう

北条政子の一生を知れば、自ずと鎌倉幕府の流れが見えてくるでしょう。源頼朝のイメージが強い鎌倉幕府ですが、その成り立ちから幕府の実権を握るまで、北条政子のリーダーとしての資質がうかがえます。

源氏の血筋の将軍はわずか3代で途絶えてしまいました。しかし、その陰で実権を握っていた北条政子を知ると、短い鎌倉幕府の歴史を知ることができるでしょう。

北条政子の父が別邸を建てた?『成福寺』に行ってみましょう

ぜひ北条家ゆかりの地・成福寺に行ってみましょう。静岡県の伊豆の国市にある成福寺は、代々北条家にゆかりがあると言われています。

敷地内には頼朝と政子にゆかりがあるとされている別邸があり、初夏になると見ごろを迎えた蓮の花を見ることができます。また、お寺の後方には、北条政子の産湯の井戸があります。

アクセスマップ

名 称:成福寺
料 金:なし
住 所:静岡県伊豆の国市四日町981
電 話:055-949-1099
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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