2016/10/18
[第4回] 社会人は、自らの大学教育の経験を通した成長をどのように認識しているのか —若年層の「ゼミ・研究室活動」経験の自由記述回答から見えてきたこと [5/6]
Ⅴ.大学時代の経験の価値を言語化して説明することの難しさ
5-1)成長実感を持たない・語れない層の存在
以上で見てきたように、大学時代の各種の経験を通して成長を実感しており、言説化出来ている層が大半である一方で、「特に成長を感じた経験はなかった」とする層が、8~9%と全体の約1割弱もおり(表1参照)、この点については注視しておくべき結果であると、本稿冒頭第1節でもすでに述べた。大学在学期間全体を通して、正課内外で成長実感のある経験が具体的に1つも思いつかない卒業生がいることは、やはり問題であると言えよう。
ただし、これらの学生がすべて大学時代に成長をしていないということではなく、成長を実感した特定の経験が思いつかない、あるいは一つを特定することが困難というケースも多く含まれると考えられる。問41の選択式設問で「特に成長を感じた経験はなかった」とした若年層回答者947名において、「大学時代全体の成長実感」の程度を聞いた設問40では、大学時代全体を通して、成長実感を「まったく実感しなかった」回答者は21.5%のみであり、逆に約8割弱の者は何らかの成長を実感していることが分かる。さらにこのうち、「特に成長を感じた経験がなかった」とする回答者の4分の1程度(24.2%)は、大学時代全体での成長を、「とても実感した」「まあ実感した」と回答しており、それなりの成長実感を持っている。このように、「特に成長を感じた経験」として聞くと、該当する経験はないと回答している層の中に、大学時代全体としては、それなりの成長実感を持っている層も一定層含まれていることが確認できる。
また、「特に成長を感じた経験」として問41で「ゼミ・研究室活動」を挙げた若年層回答者の中でも、問42の具体的経験内容の自由記述については、無回答(134名、7.5%)ないしは「とくに無し」「覚えていない」「何となく」などと(259名、14.5%)した回答者は、合計で2割以上(22.1%)もいた。また、「ゼミ・研究室活動」を選択していても、具体的経験事例についての自由記述では異なるカテゴリーの内容を記載した者も、多数(309名、17.3%)いた。
このように、そもそも大学時代に自分がとくに成長した経験を具体的に思いつかない層や忘れてしまった層、あるいは、何となく成長したと感じているがその経験や成長の中身を明確には説明できないなど大学での成長経験を言語化出来ない層が、一定数以上いることが指摘できよう。そして、これはすなわち、大学時代の各種経験の価値や意義を、明確には言語化できない、自覚的ではない大卒社会人が一定層いることを示しているとも考えられる。
5-2)大学での学びの意味・意義を学生に伝えることの重要性
このことは逆に言えば、大学側も、大学での(あるいは大学時代の)どのような学修活動や経験を通して、どのような学びと成長を得ることができる可能性があるのか、どのような学びや成長を得てほしいのか、などを、学生に伝えきれていないということでもあるのではないか。大学は、学びの経験の意味・意義や成長の可能性について、学生にもっと伝え、大学で学んでいる時から、学生が、大学での学びや成長のあり方について良く理解し、各種の学修活動や経験の意味・意義を認識させることが重要ではないか。それによって、その時々の学修活動や経験を通して、より積極的に学び・成長していけるようになり、かつ、自らの学びや成長に自覚的になるとともに、その効果も高まるのではないだろうか。
バートン=ジョーンズ(2001)は、「知識」には、「粘着性」と「吸収力」の両面があると指摘している。すなわち、自分の得た「知識」について「簡単に体系化したり、言葉や文章で表したり、相手も簡単に技を会得したりできない」という「粘着性」と、「前提となる知識があれば新しい情報や知識も理解でき吸収できる」という「吸収力」の両面があるということである。これを適用して考えれば、自らが大学で得た学び・知識というものを、言語化して説明すること自体がそもそも難しい一方で、自分が大学で得る学び・知識がどういうものであるのかについての知識がある程度事前にあれば、自らが得る学びや知識について自覚しやすくなり、学びの効果も高まる可能性があるということだと言えよう。
そしてそのためには、言語化できにくい、あるいは言語化しつくせない部分の言語化の試みや、学生および社会一般の人々にわかりやすい説明を行っていくことを、大学が目指すことも重要である。例えば、本稿で見てきた「ゼミ・研究室活動」のなかに含まれる各種の成長実感と関連する要素(学習経験・活動や環境整備等)とその効果を、明示的に言語化して、学生も教員もその意義を意識すること—によって、学生が自らの成長をより実感できるようになったり、学修動機づけにもなったり、教員が学生のアクティブ・ラーニング(能動的主体的学修)を導き出す教育を行う意義付けにもなるのではないだろうか。