2016/04/12
[第3回] 大学を卒業して実感できる大学での学びの意義 [1/7]
杉谷 祐美子●すぎたに ゆみこ
青山学院大学教育人間科学部教育学科 教授
早稲田大学大学院文学研究科教育学専攻博士後期課程退学 修士(文学)
早稲田大学第一・第二文学部助手、青山学院大学文学部教育学科専任講師、准教授等を経て現職。専門は高等教育論、教育社会学。主に、学士課程カリキュラム、初年次教育、レポート・ライティング教育、大学生の学修行動などについて研究している。近年の著書として、『大学の学び 教育内容と方法』(『リーディングス 日本の高等教育』第2巻、玉川大学出版部、2011年、編著)、『大学改革を成功に導くキーワード30 「大学冬の時代」を生き抜くために』(学事出版、2013年、共著)、『第2回大学生の学習・生活実態調査報告書』(ベネッセコーポレーション、2013年、共著)など。
早稲田大学大学院文学研究科教育学専攻博士後期課程退学 修士(文学)
早稲田大学第一・第二文学部助手、青山学院大学文学部教育学科専任講師、准教授等を経て現職。専門は高等教育論、教育社会学。主に、学士課程カリキュラム、初年次教育、レポート・ライティング教育、大学生の学修行動などについて研究している。近年の著書として、『大学の学び 教育内容と方法』(『リーディングス 日本の高等教育』第2巻、玉川大学出版部、2011年、編著)、『大学改革を成功に導くキーワード30 「大学冬の時代」を生き抜くために』(学事出版、2013年、共著)、『第2回大学生の学習・生活実態調査報告書』(ベネッセコーポレーション、2013年、共著)など。
Ⅰ.はじめに
今回の調査「大学での学びと成長に関するふりかえり調査」において、きわめて興味深かった結果の1つは、社会人と大学生の大学教育に対する考え方の違いが予想以上に大きかったことである。今回の質問項目の一部には、「大学生の学習・生活実態調査」で使用した質問項目を含めており、その結果を比較できるようにしている。これらの質問項目に基づき、筆者は、第1回、第2回の「大学生の学習・生活実態調査」を通じて、大半の学生が大学を自主的に学習する場として認識していながらも、実際の授業については講義中心で、出席や平常点を重視した、なるべく負荷の少ない授業、すなわち学生の能動的学習や自己努力をあまり必要としない授業を学生たちが好む傾向にあることを明らかにした。また、第1回調査時から第2回調査時にかけて、教育改革は着実に進展しており、アクティブ・ラーニング型の授業を経験した学生が増大しているにもかかわらず、それと相反するかのように、学生の受け身な姿勢がやや強まっていることも指摘した。
こうした学生の傾向に比して、社会人はどうであろうか。ここでは大学教育に関する考え方を尋ねた質問項目のうち、顕著に差異のみられた3項目を取り上げたい。これらの質問は【A】【B】2つの対立する選択肢からどちらか1つを選んでもらう形式をとっている。第1に、【A】あまり興味がなくても、単位を楽にとれる授業がよい ←→【B】単位をとるのが難しくても、自分の興味のある授業がよい、第2に、【A】応用・発展的内容は少ないが、基礎・基本が中心の授業がよい ←→【B】基礎・基本は少ないが、応用・発展的内容が中心の授業がよい、第3に、【A】教員が知識・技術を教える講義形式の授業が多いほうがよい ←→【B】学生が自分で調べて発表する演習形式の授業が多いほうがよい、である。いずれも【A】よりも【B】のほうが学生に負荷のかかる授業であり、さらに第1から第3にかけて、学生の負荷は増大する可能性があり、よりチャレジングな内容となっている。
これらの回答比率を比較してみよう。第1の「【B】単位をとるのが難しくても、自分の興味のある授業がよい」は、学生45.2%、社会人(23~34歳)70.6%、社会人(40~55歳)79.3%、第2の「【B】基礎・基本は少ないが、応用・発展的内容が中心の授業がよい」は学生24.9%、社会人(23~34歳)37.6%、社会人(40~55歳)51.8%、第3の「【B】学生が自分で調べて発表する演習形式の授業が多いほうがよい」は学生16.7%、社会人(23~34歳)42.8%、社会人(40~55歳)54.2%、となっている。いずれの質問項目でも、学生が【B】を選ぶ比率が最も少なく、第1から第3にかけてその比率はますます減少していっている。いいかえれば、学生は負荷の少ない授業の【A】を選ぶ比率が最も高く、能動的学習を敬遠する傾向にある。そして、学生よりも社会人、しかも世代が上がるほど【B】の選択率は高まり、学生の能動的学習が求められるようなチャレンジングな授業のほうをよいと考えている。特に、学生と社会人(40~55歳)との開きは、第1、第2の質問では約2倍、第3にいたっては3倍以上となっている。それでは、こうした考え方の違いは一体何によってもたらされているのだろうか。