• 中学●年生
  • 教育動向

家紋はあの桐紋! 日本史上最高の出世頭、豊臣秀吉の処世術

織田信長も認めた家臣・豊臣秀吉…持ち前の能力を発揮してみるみる出世

日本一の出世頭といえば、地侍の子どもから天下人にまで上り詰めた戦国時代の覇者、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が有名です。

尾張(おわり・現在の愛知県西部)で百姓(一説には足軽)の子どもとして生まれた豊臣秀吉は、家を飛び出し、針売りの商人などさまざまな職について凄まじい青少年時代を過ごします。

その後、今川義元(いまがわよしもと)の家臣の家臣、松下嘉兵衛(まつしたかへい)の下で小納戸役(こなんどやく・経理)などを務めた後、織田信長(おだのぶなが)に仕えました。

豊臣秀吉(今川家時代から木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗ったとされる)が運のよかったことには、織田信長という大名が完全実力主義であったという点です。先にも述べたように、大名家の中で低い身分の新参者が出世するのは非常に難しい時世でしたが、織田信長は、有能で功を挙げさえすればどんどんと昇格させてくれました。

豊臣秀吉は美濃(みの・現在の岐阜県)の斎藤氏との合戦で武将として頭角を現すと、越前(えちぜん・現在の福井県)の朝倉、近江(おうみ・現在の滋賀県)の浅井連合軍との戦いでも大きな手柄を立てます。才覚を見出して出世させる代わりに、ダメな部下に厳しい織田信長も、「藤吉郎は、できる」と何度も舌を巻いたことでしょう。

その甲斐あってか、浅井氏が滅んだ後、旧領の近江に城を築くことを許されます。織田信長が後に築くことになる『安土城』と同じ、琵琶湖の湖畔に城を完成させました。

その名も『長浜城』(ながはまじょう)です。針を売ってなんとか生計を立てていた人物が、ついに一国一城の主となったのです。

そして、同じ時期に織田信長の重臣(重要な役職を務める家来)だった丹羽長秀(にわながひで)の“羽”と柴田勝家(しばたかついえ)の“柴”の字をもらいうけ、「羽柴筑前守秀吉」(はしばちくぜんのかみひでよし)と名前を改めるのでした。

“筑前守”。つまり朝廷の重要な官位を与えられたのです。この時点で未曽有の出世といえるのですが、しかし、彼の出世物語はまだまだ終わりません。

猛烈な勢いで東海、近畿地方を掌握していた織田信長の次なる強敵、毛利氏攻略のため、中国攻めの総大将として備中(びっちゅう・現在の岡山県)『高松城』を攻めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)。そこで、同じく織田信長の重臣だった明智光秀(あけちみつひで)の謀反により、織田信長が『本能寺』にて敗死したと知ります。

備中から大急ぎで京都に戻り、『山崎の戦い』で主君の仇である明智光秀を倒すと、織田家一の重臣、柴田勝家も『賤ヶ岳(しずがだけ)の戦い』で倒し、織田信長の後継者としての地位を確立していきます。

天下統一事業を織田信長より引き継いだ豊臣秀吉(途中、関白職に任官され、豊臣秀吉に改名)は、勢いそのままに四国の長宗我部氏(ちょうそかべし)、三河(みかわ・現在の愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)、九州の島津氏などを傘下に入れ、関東の北条氏を滅ぼし、東北を平らげ、ついに天下統一を成し遂げました。

朝鮮出兵など失策した『豊臣秀吉』から学ぶ【教え】

侍の頂点に上り詰めた豊臣秀吉から学ぶべきことは、本当にたくさんあります。

豊臣秀吉といえば、天下人となった要因として抜群の頭の回転の早さと、“人たらし”であったことが挙げられるのではないでしょうか。

美濃攻めの足がかりとして敵地目前の墨俣(すのまた)という、川の合流地点の中洲に城を築く必要に迫られたときには、築城用に組み上げた木材をイカダにして川を下り、敵に攻撃する暇を与えず短期間で城を造り上げたという説もあります。この『墨俣一夜城』という逸話は創作のようですが、そんな話が生まれるくらい優秀だったのでしょう。この他にも豊臣秀吉の戦は、従来に類を見ないようなものが多いのです。

中国攻めでは、『三木城』(みきじょう)や『鳥取城』を包囲して城兵の食糧を完全に絶つ長期戦(三木の干殺し、鳥取のかつえ殺し)をし、『高松城』ではその立地を生かして川をせき止め、城を水に沈めたりしました(高松城水攻め)。さらに、調略(敵側の家臣を味方に引き入れ、戦を有利にする)もあり、武力のみに頼らないのが、彼のもち味なのです。

また、主君の織田信長は非常に言葉足らずで、指示を与える際も、しっかりと説明しないことが多かった人物といわれています。そのため部下は、織田信長が何を伝えたいのかを考えながら行動しなくてはいけません。

ですが、豊臣秀吉は織田信長の言葉以上のことを察知し、さらに、先読みして行動できました。豊臣秀吉が織田信長から愛されたのも、こういった人の心を読む能力があったからといえるでしょう。

かといって、あまりでき過ぎると同僚からの嫉妬を買ってしまうので、先の「羽柴」の姓のように、謙虚な姿勢を示して同僚の支持を得られるように努めたようです。

仕事を完璧にこなし、気のおけない同僚をたくさんつくったからこそ、豊臣秀吉の出世物語が完成したのかもしれません。

しかし、反面教師的な部分もありました。

天下人となってからの豊臣秀吉は、疑問の残る行動も数多くしています。

茶の師にして豊臣秀吉の政治における助言者のような立ち位置だった千利休(せんのりきゅう)や、関白職を譲った甥の豊臣秀次(とよとみのひでつぐ)に切腹を命じたり、さらに明(中国)の侵略をたくらみ、朝鮮へ二度も出兵して、国力を浪費させてしまいます。

こうした行動が豊臣秀吉死後、豊臣政権崩壊の原因の一端を作ってしまったともいえるのです。

――かつての豊臣秀吉には武将として、織田信長は備えていなかったかもしれない性分をもっていました。

それは、敵でも平気で許したことです。

降伏してきた敵に敬意をもって接し、本領を安堵するどころか自身の重臣として重宝するケースさえありました。そのため相手は最後まで抗戦せずに、大人しく豊臣秀吉の軍門に下れたのです。この器の大きさが、天下統一事業を何年早めたのかわかりません。

しかし、晩年はかなり変わってしまいました。

お子さまにはこの豊臣秀吉のエピソードを反面教師とし、いくら自身が偉くなったとしても「初心を忘れるべからず」、と教えてあげるといいかもしれません。

『豊臣秀吉』の成功の証であるお城『長浜城』へ行ってみましょう

旧浅井領地に建てられた豊臣秀吉最初の本格的な城郭です。織田信長の商業政策を模したため、長浜の城下町も活気があったといいます。善政を敷いて、領民から愛されていた豊臣秀吉は、妻・寧々(ねね)とともにこの土地のことを非常に気に入っており、天下人になった後に長浜に住んでいる僧や商人が訪れた際には「里の者、来たか!」と喜んだそうです。豊臣秀吉が「侍になって、織田家の家来になって、本当によかった」と思えたのは、天下を統一したときではなく、『長浜城』の完成を見たときなのかもしれません。

アクセスマップ

名 称:長浜城歴史博物館
時 間:9時00分~17時00分(受付は16時30分まで)
休 日:不定休
料 金:大人400円・小学生200円
住 所:滋賀県長浜市公園町10-10
電 話:0749-63-4611
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。

お子さまに関するお悩みを持つ
保護者のかたへ

このようなお悩みを持つ保護者のかたは多いのではないでしょうか?

\そんな保護者のかたにおすすめなのが/
まなびの手帳ロゴ ベネッセ教育情報サイト公式アプリ まなびの手帳

お子さまの年齢、地域、時期別に最適な教育情報を配信しています!

そのほかにも、学習タイプ診断や無料動画など、アプリ限定のサービスが満載です。

ぜひ一度チェックしてみてください。