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天下人・徳川家康とは何をした人? 天下統一までの道のりやエピソードを解説

徳川家康徳川家康

その性格は? 徳川家康の忍耐力のルーツは少年時代から始まった

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」
という狂歌をご存じですか?

これは、織田信長(おだのぶなが)がはじめた天下統一という大事業を、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が引き継いで完成させたのに、何もしていない徳川家康(とくがわいえやす)が現れてわがものにしてしまった、という意味です。

つまり、徳川家康が天下を横取りした、と例えている歌なのです。

事実、そういった側面もあったでしょう。

しかし、徳川家康は決して楽な人生を送ってきたわけではありません。いえ、むしろ苦労の連続でした。

徳川家康、幼名、竹千代(たけちよ)。三河(みかわ・現在の愛知県東部)の『岡崎城』で弱小大名の嫡男として生まれた竹千代は、6歳からの2年間を織田家、その後19歳までを今川家の人質として過ごします。

「このまま人質として人生を終えてしまうのか」

忍耐の日々が続き、少年ながらそんな思いに打ちひしがれることも多々あったでしょう。ですが、結果からいってしまえば、徳川家康こそがこの戦国時代の最終勝者となったのです。

1600年に起こった天下分け目の『関ヶ原の戦い』で東軍の統率者として、西軍・石田三成(いしだみつなり)らを破り、1603年に江戸幕府を開きます。そして、その12年後に豊臣秀吉無き後の豊臣家を滅ぼして、250年以上という世界的に類を見ない、長期安定政権を生み出したのはご存じの通りです。

太平洋戦争が終わって現在まで、まだおよそ70年ですから、それを考えればいかに江戸幕府が長続きしたかがわかるでしょう。

…もし徳川家康がいなければ、日本の首都は東京ではなかったかもしれません。

徳川家康はそれくらい後世に影響を与える功績を残しています。

それもこれも、幼少期の人質生活があったからこそ、といっても過言ではないでしょう。

『徳川家康』が残した名言から学ぶ【教え】

さらに、徳川家康の忍耐の歴史は幼少時代だけではありません。

織田信長が桶狭間(おけはざま)で今川義元(いまがわよしもと)を討ち倒すと、晴れて人質生活に別れを告げます。そして、織田家の人質時代に親交があったともいわれる織田信長と同盟を結びますが、同盟といっても立場は対等ではなく、織田信長に対して家臣のように従うことを強いられるものでした。

織田信長から危険な戦いの先鋒を務めさせられたり、妻である築山殿(つきやまどの)と、嫡男の徳川信康(とくがわのぶやす)が織田信長から敵国との内通を疑われ、二人を死に追いやらなくてはならないなど、理不尽なことをたびたび強いられました。

けれど、徳川家康は耐えました。ここで逆らってしまえば織田方から敵視され、徳川家自体の立場を危うくしてしまう…そう考えていたのでしょう。

徳川家康が少数の部下を引き連れて大阪の堺を観光しているときに、織田信長が明智光秀(あけちみつひで)の謀反により本能寺で討たれたとの急報が入ります。明智光秀は当然同盟者である徳川家康も討とうと網を張っているので、徳川家康もこのときばかりは死を覚悟したといいます。

ですが、織田信長が桶狭間で今川義元を破ったように、豊臣秀吉(当時羽柴秀吉・はしばひでよし)が地獄と呼ばれた金ヶ崎の撤退戦から生還したように、徳川家康もここで奇跡を起こします。険しい山道を伊賀の人々の助けを借りながらかき分け、刺客に襲われながらも何とか三河(現在の愛知県)まで戻ることに成功しました。これが世にいう『伊賀越え』です。

しかし、命からがら三河に帰っても、せっかく他家である織田家のために身を粉にして働いたという実績があっても、徳川家康がその後継者になることはできませんでした。そう、豊臣秀吉の台頭です。

織田信長の天下統一事業を引き継いで瞬く間に勢力を広げていく豊臣秀吉に、世間は「もはや豊臣の世」と思っていたはずです。

徳川家康も『小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い』で豊臣軍を一度は破り、三河武士の実力を示しましたが、結局は豊臣家の家臣としてその傘下に入ることになりました。そして、豊臣秀吉の天下統一事業を助けましたが、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼして天下統一が成ると、徳川家は領地を三河から関東(江戸)に移されてしまうのです。

ゆかりの深い領地を追われ、江戸の地で徳川家康は忍耐強く待つことにしました。

…何をか?

豊臣秀吉の死を、です。

豊臣秀吉が天下を統一したとき、徳川家康は48歳、豊臣秀吉は53歳でした。

天下をわがものにするには、何としても豊臣秀吉よりも長く生きなくてはなりません。徳川家康は健康オタクとしても知られています。食生活だけではなく、調合薬の知識も深く、長生きするためにあらゆることを徹底していたといいます。

そして、豊臣秀吉が死に、その盟友である前田利家(まえだとしいえ)もこの世からいなくなると、徳川家康はついに行動を起こします。

それが『関ヶ原の戦い』です。

このとき、徳川家康はすでに当時としては老齢だった57歳になっていました。

前述のとおり関ヶ原で勝利を収め、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼすと、天下泰平の世をつくり出すという役目を終えたとばかりに、その翌年、永眠します。74年の長い生涯でした。

――苦労や不条理を強いられても、そのすべてを忍耐力で乗り越え、最終的に勝者となった徳川家康。彼のその生き様を、見事に表している言葉があります。

「人の一生は、重き荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」

人の生きる速度というのは人それぞれ。他人の幸せを見て嫉妬し、焦ることもあるでしょう。そんなときは徳川家康の一生とこの言葉を思い出してみると、すっと肩の荷が下りるかもしれません。お子さまにもぜひ伝えてあげたい名言です。

子孫たちの誇り! 徳川家康が晩年を過ごした『駿府城』へ行ってみましょう

徳川家康は天下を取ると、諸大名に命じて『駿府城』(すんぶじょう)の大改修に着手します。完成した約55m×48mという天守台(天守閣を載せる主に石造りの台)は日本の城郭の中で最大級の規模を誇り、天守閣の背景には富士山がそびえていました。その堂々たる姿に、徳川家康という大人物を重ね合わせた当時の民衆も多いことでしょう。この地で徳川家康は大御所政治(前の将軍が退いた後も政治の執権を握り続けること)を行い、その後、250年以上続く江戸幕府の基盤を作ったのです。現在天守などはなく、その面影を残すに留まっていますが、2015年、徳川家康400回忌に伴い、坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元し『駿府城』の新たな歴史の幕が開きました。

アクセスマップ

名 称:駿府城跡

時 間:東御門・巽櫓(たつみやぐら) 、紅葉山庭園 、坤櫓 9時00分~16時30分(入場は16時00分まで。公園は自由)
休 日:東御門・巽櫓 、紅葉山庭園 、坤櫓 月曜日(祝日、休日にあたる場合はその翌日。公園は無休)
料 金:東御門・巽櫓 大人200円・小人50円、紅葉山庭園大人150円・小人50円 、坤櫓大人100円・小人50円、全施設共通券大人360円・小人120円

※団体30名以上の場合:東御門・巽櫓…大人160円・小人40円
紅葉山庭園…大人120円・小人40円
坤櫓…大人80円・小人40円
全施設共通券…大人280円・小人90円

住 所:静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
問い合わせ先:駿府城公園利用について(静岡市都市局公園整備課) 054-221-1433
駿府城の歴史について(静岡市観光交流文化局歴史文化課) 054-221-1085
その他(駿府城公園二の丸施設管理事務所) 054-251-0016
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。

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