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全国の武将が集結! 天下分け目の『関ヶ原の戦い』で何が起こっていた?

関ヶ原古戦場関ヶ原古戦場

『関ヶ原の戦い』とは? 勃発の背景は? 関ヶ原の場所は?

「笹尾山」(ささおやま)の陣地から自軍の総崩れを眺めていた西軍事実上の大将・石田三成(いしだみつなり)は、関ヶ原から撤退し山中へ逃れました。これにより、東軍の大勝利という形で、『関ヶ原の戦い』は幕を下ろしたのです。

3年後、勝者である東軍大将・徳川家康(とくがわいえやす)は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を創設します。

まさに天下分け目の合戦であり、徳川家康を天下人へ押し上げた『関ヶ原の戦い』、その経緯を追っていきましょう。

天下人となり動乱の世に終止符を打った豊臣秀吉(とよとみひでよし)ですが、『関ヶ原の戦い』の2年前、1598年に61歳でこの世を去ります。このときの機会を油断せず狙っていたひとりの武将がいました。

――徳川家康です。

豊臣秀吉には実子の豊臣秀頼(とよとみひでより)がいましたが、まだ幼児でした。そこで豊臣秀吉から豊臣秀頼の後見を任されたのが、五大老の一人・徳川家康でした。徳川家康は関東の大半を所有し、豊臣秀吉亡き政権で最も大きな力を持つ大名でした。
そんな徳川家康は豊臣秀吉の死をいいことに、他の大名と婚姻関係をむすんだり、勝手に手柄に応じた賞を与えるなど、ごうまんな行動をみせます。これに危機感をもったのが、豊臣秀吉の子飼いの武将であり、政権の五奉行の一人、石田三成でした。

客観的に見ると、大義は石田三成にあります。しかしこの男、武将というより官僚としての能力にたけ、豊臣政権のためなら平然と容赦をせずに不正や怠惰などを告発、処分したこともあり、多くの武功派の武将たちから嫌われていました。

しかし石田三成は徳川家康との対決を決意し、徳川家康が大軍を率いて会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ・五大老の一人)征伐へ出向いている隙に、五大老の毛利輝元(もうりてるもと)を総大将に奉じて挙兵しました。これより前、石田三成は諸大名に大義名分を説いたので、同じく五大老の宇喜多秀家(うきたひでいえ)、五奉行の増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)などが加担。これにより、西国大名の大半が石田方(西軍)につき、さらに大谷吉継(おおたによしつぐ)や真田昌幸(さなだまさゆき)・真田信繁(さなだのぶしげ)の父子など有力な武将を引き入れることに成功します。しかし一方で、徳川家康と会津征伐に出向いていた豊臣秀吉子飼いの加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らは、石田三成を嫌っており、すっかり徳川方(東軍)の一員になりました。

徳川家康は西軍の挙兵を知ると、会津の手前、小山というところで軍議を開きます。結果、すぐに引き返すことを決意、徳川家康とともに遠征していた大名たちは皆、西軍を討つために進撃を開始します。一方徳川家康は江戸にとどまって防御態勢をととのえるとともに、敵味方関係なく、多くの手紙をしたため、政治工作をすすめました。
しかし東軍の先鋒軍が西軍の『岐阜城』を落とすなど猛進撃を続けたため、ようやく徳川家康は江戸を出立、石田三成ら西軍が籠もる『大垣城』近くに着陣します。ただ、城を攻めて時間をとられると、『大坂城』の毛利輝元が豊臣秀頼を奉じて援軍にくる危険があります。主君豊臣秀頼がやってくれば、東軍の諸将も動揺するでしょう。そこで徳川家康は偽の情報を流すなどして西軍を城から離脱させます。西軍はすでに陣地を構築していた関ヶ原近辺に陣取ります。そこに東軍がなだれ込むかたちで、両軍合わせて十数万人がにわかに関ヶ原(現在の岐阜県南西部)へ集結し、運命の戦いが始まりました。

小早川秀秋の裏切りで敗れた石田三成から学ぶ【教え】

西軍はあらかじめ適所に布陣して東軍を待ち受ける圧倒的有利な態勢でしたが、なんと、戦いが始まっても西軍の大半がこれに加わらず傍観したのです。徳川家康が敵に対し、盛んに政治工作をした結果でした。それでも序盤は参戦した西軍武将が一時的に東軍を押していましたが、次第に戦況は膠着していきます。

その均衡状態を打ち破ったのが、西軍・小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切り行為です。

関ヶ原の南西部、松尾山に1万5,000もの大軍で陣を取っていたこの隊が、いきなり味方に攻めかかったのです。敵と内通し裏切りの約束をしていたのです。この行動は、戦況を変えるためには十分なものでした。

これにより、西軍はたちまち混乱し、総崩れとなりました。そう、ここに勝敗は決したのです。

さて、石田三成が敗北した原因には、今の世にも通ずる真理が隠れているのではないでしょうか。

勉強の成績がよかったりスポーツが得意だったりしても、それだけでクラスメイトたちが協力してくれたり、助けてくれたりするわけではありません。逆に、勉強やスポーツで飛び抜けた才能がなくても、好人物であれば周囲の協力を得られ、大きなことを成し遂げられることもあるでしょう。

そんなことを石田三成と『関ヶ原の戦い』から学べるのではないでしょうか。

徳川の世をつくった場所、岐阜県にある関ヶ原に行ってみましょう

日本の大名を二分した決戦、『関ヶ原の戦い』の舞台で、古戦場は石田三成、大谷吉継、徳川家康、福島正則ら多くの武将の陣跡が残されているほか、672年に起こった『壬申の乱』の史跡を見ることもできます。古戦場はもちろん、関ヶ原町には多くの自然が残っており、その自然の音に耳を澄ませば、勇猛果敢に戦った侍たちの鬨(とき)の声が聞こえてくるのではないでしょうか。

アクセスマップ

名 称:関ヶ原古戦場
時 間:立入自由
休 日:無休
料 金:無料
住 所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202(決戦地)
電 話:0584-43-1600(関ケ原観光協会)
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。

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