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関ヶ原の戦いが起こるまでの伏線と経緯4つ 西軍の敗因とその後の動き

天下分け目の戦い関ヶ原の戦いとは

関ヶ原の戦いとは、1600年に徳川家康を中心とした東軍と石田三成を中心とした西軍が美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で行った戦いのことです。


天下を統一した豊臣秀吉の死後、力の強くなった家康に反発した三成が挙兵し、全国の有力大名を巻き込んだ戦いへと発展しました。この戦いによって豊臣家は滅び、家康が江戸に幕府を開きました。その後260余年に及ぶ徳川の世が始まります。

関ヶ原の戦いが起こるまでの伏線

関ヶ原の戦いは全国の大勢の大名が参加した戦いですが、いきなり始まったわけではありません。戦いの伏線となるような、いくつかの出来事がありました。


豊臣秀吉が天下統一をしたことと、五大老・五奉行を設置したことです。 秀吉が天下を統一しましたが、徳川家康の力がとても強いことは大勢が知っており、家康に反感を持つ大名もいました。

豊臣秀吉の天下統一

多くの武将が戦いを繰り返してきた戦国時代は、豊臣秀吉が天下を統一して終わりました。


本能寺の変で織田信長が亡くなると、秀吉は謀叛を起こした明智光秀や織田家の柴田勝家を討ちました。


そして大坂城を築城して信長の後継者であることをアピールし、関白・太政大臣となって政権を樹立します。大名間の争いを禁じ、従わない大名は征討して1590年天下を統一しました。


秀吉は天下統一を成し遂げましたが、強い力を持った徳川家康の存在により、安泰といえるものではありませんでした。

家康ら五大老と三成ら五奉行の設置

病気になって自分の死を覚悟した豊臣秀吉は、五大老・五奉行という役職を設置します。


五大老には有力大名である徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(死後は上杉景勝)がいて重要な政務を行い、五奉行は秀吉の部下である前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家がいて秀吉の政治補佐を行います。


秀吉の死後は、跡継ぎである息子の秀頼が幼かったので実際の政治を五大老と五奉行が行いました。


秀吉は自分の死後、家康がさらに力を持って独走するのを防ぎたいという考えがあり、このような五大老・五奉行を設置したのです。

関ヶ原の戦いが起こるまでの経緯4つ

関ヶ原の戦いは政治的な駆け引きなど、いろいろな出来事が積み重なって起こりました。


豊臣秀吉の死を機に、これまで見えていなかった対立関係が浮き彫りとなり、全国の大名を巻き込んだ大きな戦いへとなっていきます。


では、どんな出来事が起こって戦いへつながっていったのか見ていきましょう。

秀吉の遺言を破り台頭した家康

豊臣秀吉の遺言を無視して行動する徳川家康は、次第に大きな力を持つようになります。


禁止されていた大名同士の結婚や領地の取引を、家康は独断で行いました。それによって家康は力をつけていきますが、他の大名たちから非難を受けます。

家康に対立した石田三成

徳川家康の勝手な行動に五奉行は怒り、特にその筆頭である石田三成は家康を非難するようになります。


内部分裂は豊臣秀吉が生きていたころからあり、三成を中心とした政務担当の「文治派」と合戦で戦っている「武断派」が対立していました。


武断派が家康を頼るようになると、対立はますます激しいものになります。しかし、すぐに戦いに発展しなかったのは、仲裁役として前田利家が活躍していたからです。

前田利家の死と三成襲撃計画

対立していた武将たちの仲裁役である前田利家の死と、同じころに起こった石田三成襲撃未遂事件は、対立をさらに深めただけでなく、関係を修復不可能なものにしました。


仲裁役を失った大名たちの対立はますます激しくなり「徳川派」と「石田派」にわかれて対立していきます。ついに武断派7名の武将が三成を倒そうと襲撃計画を立てますが、三成は事前にそれを察知し、難を逃れます。


結果的に、徳川家康がこの事件を仲裁し大事にはいたりませんでした。襲撃事件後、三成は謹慎処分となって一時的に失脚し、事件を解決させた徳川家康の権力はますます強くなりました。

家康による上杉征伐

徳川家康は、命令に従わず、軍備を整え出した五大老の上杉景勝を謀反の疑いがあるとしました。


そして、会津にいる景勝を討伐するために大軍を率いて出陣します。


家康は他の五大老や五奉行も従わせると、豊臣家の中で強い力を持つようになり、世の中も「このまま徳川が天下をとるのでは」という考えが広まっていきました。しかしそれに反発したのが上杉景勝でした。

三成らの挙兵・関ヶ原の戦いへ

機会をうかがっていた石田三成は徳川家康が出陣したことを機に、打倒徳川の兵を挙げます。


家康が家臣と一緒に出陣したので、大坂城には一時的に徳川派がいなくなりました。三成はチャンスとばかりに諸国の大名に協力を呼びかけ大勢の兵を集めて、徳川家臣の家族を人質にとり、徳川の兵がいる伏見城を攻撃しました。


会津に向かっていた家康は、三成が挙兵したという報せを聞くと会議をひらいて話し合います。この小山評定と呼ばれる会議で石田軍と戦うことが決定し、東軍=家康、西軍=三成という二大陣営となり、のちに関ヶ原で激突することになります。

関ヶ原の戦いの顛末と西軍の敗因4つ

関ヶ原の戦いは徳川家康中心の東軍が勝ち、石田三成中心の西軍が負けました。 戦いは西軍優勢で始まりますが、約16万という大人数での戦いは驚くことにたった1日。しかも、約6時間程度で決着がついたと言われています。


短い時間の中で一体どんなことが起こって、なぜ西軍が負けたのでしょうか。4つの敗因について解説していきます。

動かない西軍の毛利軍

五大老のひとりで安芸国の大名である毛利輝元は、西軍の総大将として大坂城に入りますが、結局戦いが終わるまでそこから一歩も動きませんでした。


西軍の中心となったのは石田三成でしたが、総大将は中国地方で約120万石の大名である輝元です。関ヶ原の西にある南宮山の山頂に、毛利秀元と吉川広家勢はいました。


吉川広家は東軍とも通じていたため、頑として山から動きませんでした。そのため、秀元は軍を動かせず、結果戦場の毛利軍は戦の間、何もしないまま戦いを終えます。


このときに、秀元が山から下りて、徳川家康の背後をついていたら、関ヶ原の戦いは西軍が勝利したといわれています。

西軍の小早川秀秋の裏切り

西軍の小早川秀秋が裏切ったことによって、東軍が勝利します。


東西にわかれて戦っていますが、実はどちらに味方をしようか迷っていたり、裏切ったりしている武将がたくさんいました。秀秋もどちらにつくか迷っていたところ、しびれを切らした徳川家康の催促を受けてようやく決意するのです。


1万以上の軍を率いた秀秋の裏切りをきっかけに、西軍から東軍へ次々と寝返る武将が出てきます。これで流れが変わり、東軍優位が決定的なものになりました。

家康の周到な準備

徳川家康は、西軍の大名に「寝返ってくれれば褒美をあげる」という手紙を書いて根回しをしていました。 上杉を討つといって大坂城を出た家康は江戸に寄り、そこに1か月もの間滞在して、この間に寝返りそうな大名に宛ててそのような手紙を書いていたのです。


そうして西軍の小早川秀秋と吉川広家が戦いの佳境で裏切り、家康は見事勝つことができたのです。

三成の不人気?

西軍に裏切りや寝返りが多かった原因のひとつに、石田三成に人気がなかったことが考えられます。


友人の大谷吉継からも「横柄だから陰口をたたかれている」といわれるほど周囲と上手く付き合うことができなかったともいわれています。


また、三成は豊臣秀吉の側近として大名との間で連絡係をしていました。そのときに、望まない報告を秀吉にされてしまい、処罰を受けたり領地を減らされたりした人が多くいて恨みを買っていたようです。


小早川秀秋の裏切りにより戦局が大きく動き東軍有利とわかると、普段からよく思っていない三成をあっさりと裏切る大名が多く出ました。

関ヶ原の戦いのその後の動き4つ

戦いに勝った大名と負けた大名は、その後どうなったのでしょうか。


関ヶ原の戦いで、勝った東軍の大名と負けた西軍の大名では、その後の人生に大きく差がありました。勝った徳川家康や大名たち、負けた石田三成、毛利輝元、豊臣秀頼などがその後どうなって、どう生きたのか見ていきましょう。

東軍には論功行賞

徳川家康は、西軍から没収した所領を自分と東軍の大名たちに恩賞として分配します。 また、家康の直轄領も250万石から400万石に増やし、圧倒的な力があるということを示しました。


また、豊臣家側の福島正則や黒田長政、寝返った小早川秀秋などにも多くの土地や石高が加増されました。

西軍武将の処刑や改易・減封

西軍の中心であった石田三成は捕えられて小西行長、安国寺恵瓊らと一緒に京都で処刑されました。


西軍の総大将毛利輝元は、安芸・周防・長門・備後・備中・出雲・隠岐・石見の8ヵ国120万5,000石を没収されましたが、吉川広家により周防・長門の2ヵ国36万9,000国の領主として、毛利家を存続することができました。


このように、他の西軍の大名も改易・減封や取潰しといった厳しい処分を受けることとなったのです。また、豊臣秀頼も摂津、河内など65万石の大名となり、豊臣家だけでなく豊臣派の大名の力が大いに弱まることになりました。

幕府を江戸に開く

1603年、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開きます。


江戸で幕府を開いた2年後に家康は、将軍の地位を息子の秀忠に譲り、家康は静岡の駿府に行きますが、大御所と称して政治の実権は握ったままです。


大坂では、徳川幕府の権力下にない豊臣秀頼が大名や公家に対して権威を保っていました。

豊臣家の滅亡

1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣という2回の戦いによって豊臣家は滅亡します。


関ヶ原の戦い後、西軍だった豊臣家の勢力は弱まりましたが徳川幕府の支配下にはなく、大名や公家に対して権威を保っていたため、徳川家康は豊臣家の存在を脅威に感じていました。


あるとき家康は、豊臣家が方広寺で行った供養に難癖をつけた挙句、無理な条件をつきつけて挙兵させ、戦いに持ち込みます。これが大坂冬の陣・夏の陣という戦いで、最後は豊臣秀頼と母の淀君が自害し、豊臣家は滅亡しました。

関ヶ原はどんなところ?

関ヶ原は、まわりが山地に囲まれた盆地です。 平地になっている盆地はもちろん、山の中にも陣をおいて戦いが行われました。


関ヶ原の戦いは、その名前のせいか平野で戦いを繰り広げたと思われがちですが、実は平野だけでなく、山の中にも多くの武将がいました。有名な裏切りをした小早川秀秋も松尾山いて、関ヶ原全体が見渡せる場所でした。


16万もの武将が戦いを繰り広げた関ヶ原は、何もない原野だったわけではありません。その場所に暮らしている人もおり、多くの人が戦いによる被害を受けたのです。

関ヶ原の戦いから得られる学び

関ヶ原の戦いで注目するのは、やはり勝った東軍の中心人物、徳川家康でしょう。


家康の我慢強さは相当なものといえます。 織田信長、豊臣秀吉という大きな権力を持った人がいてもあきらめずに、じっくりとチャンスをうかがい続け、ようやく関ヶ原の戦いにより権力を手にしました。


家康のように長い時間我慢するのは大変なことですが、自分がこうなりたいなど目指しているものに向かって、あきらめずにチャンスが来たら逃さずつかみ取りたいものです。


関ヶ原の戦いにはたくさんの大名が登場し、それぞれが自分の考えや信念を持って戦っています。家康以外にも学びを得ることのできる大名が大勢いるため、探してみてはいかがでしょうか。

徳川の世をつくった場所、岐阜県にある関ヶ原に行ってみましょう

日本の大名を二分した決戦、『関ヶ原の戦い』の舞台で、古戦場は石田三成、大谷吉継、徳川家康、福島正則ら多くの武将の陣跡が残されているほか、672年に起こった『壬申の乱』の史跡を見ることもできます。古戦場はもちろん、関ヶ原町には多くの自然が残っており、その自然の音に耳を澄ませば、勇猛果敢に戦った侍たちの鬨(とき)の声が聞こえてくるのではないでしょうか。

アクセスマップ

名 称:関ヶ原古戦場
時 間:立入自由
休 日:無休
料 金:無料
住 所:岐阜県不破郡関ヶ原町大字関ヶ原1202(決戦地)
電 話:0584-43-1600(関ヶ原観光協会)
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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