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大塩平八郎の乱とは? 原因とその後の影響についてご紹介。人物エピソードも

大塩平八郎の乱とは

大塩平八郎の乱は、1837年に大阪の元与力大塩平八郎が起こした反乱です。大塩平八郎は飢えにあえぐ民衆たちを救うために、私利私欲を肥やしていた大阪の豪商を襲って金銭や米を奪いました。 ところが反乱は1日で鎮圧され、反乱に関わった人たちは厳しく処罰されました。

また、大塩平八郎は豪商が多く住むエリアに火をつけたため、1万世帯以上が焼け出されるなど、民衆にも大きな被害を及ぼしてしまいます。

大塩平八郎のエピソード3つ

大塩平八郎とはどんな人物だったのでしょうか。行ったことや人柄などをみていきましょう。

大坂町奉行所の与力だった

大塩平八郎は大坂町奉行所の与力としておよそ25年間働いた人物です。 与力とは奉行や所司代の下に配属された下級武士のこと指し、庶務を担当していました。町奉行以外にも所司代や城代、火消役にも与力がついています。

大塩平八郎が働いていた大坂町奉行所は「遠国奉行(おんごくぶぎょう)」の1つで、警察・裁判・御触書の執筆・発行や、治安維持などの機能をもった役所です。現代でいえば、警察署と裁判所が合体したような役所だったといえるでしょう。遠国奉行では、今でいう民事事件の訴訟も取り扱っています。

与力の役割は、犯罪の捜査や犯人の逮捕、町の見回り等です。大塩平八郎は13歳〜14歳の頃に大坂町町奉行所で見習いとして働き始め38歳まで、与力職を勤めました。

正義感が強い

大塩平八郎は正義感が強い名与力として知られていたようです。キリシタンの逮捕や悪事を働く役人の糾弾、難事件の解決など、大阪では大きな存在感を示していたと言われています。

大塩平八郎は非常に正義感が強く、事件解決だけでなく役人の汚職についても追及の手を弱めませんでした。もちろん当時の役人の多くが受け取っていた賄賂も受け取りません。

私塾で陽明学を教えていた

大塩平八郎が与力の職を辞したのは38歳のこと。大塩平八郎を信頼してくれていた上司である奉行が辞職したため、大塩も後に続いたのです。 与力を辞職した後は、大塩平八郎が開いた私塾「洗心洞」で陽明学を教えます。 陽明学とは、知行合一(ちこうごういつ)をモットーにした中国で生まれた儒学のひとつ。知行合一とは、「知識は行動を伴ってこそ意味がある」という意味で、大塩平八郎はこの言葉と考え方を大切にしていました。

大塩平八郎の乱が起きた原因

大塩平八郎の乱が起きた原因はなんだったのでしょうか。時代背景や原因となった出来事などをみていきましょう。

天保の大飢饉

大塩平八郎の乱の4年前、1833年に天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)が起こり、日本中で多くの人々が飢え死にしました。その数は30万人を超えていたとも言われています。農村だけなく都市部の人々も困窮しました。飢えで苦しむ人々を救うため、大塩平八郎は自分の本を売り払って620両という大金を用意して、1万人に分配しました。しかしながら、それだけでは全ての人を救うことはできませんし、焼け石に水です。さらに大阪の一部の商人たちはただでさえ流通量が少ない米を買い占めていたため、お金があっても十分に米を買えない状態でした。大塩平八郎が乱を起こす前年には、甲斐国(現在の山梨県)や三河国(現在の愛知県)でも一揆が発生しています。大塩平八郎が暮らす大阪以外の地域の人々も、天保の大飢饉によって苦しみ、事態の改善を求めて立ち上がっていたのです。

大坂町奉行所が対策を立てられなかった

天保の大飢饉によって、多くの人々が苦しんでいることが大塩平八郎の乱のきっかけではありますが、最後の引き金を引いたのは大坂町奉行所の対応でした。大塩平八郎は、私財を投じて人々を助けようとしただけでなく、大坂町奉行所に救済案を提出して、人々を助けるようにと働きかけました。ところが、奉行は大塩平八郎の提案を却下するだけでなく、大阪の米を江戸に送るなど、自分の評価を上げようとする始末です。

大塩平八郎の乱によって起きた影響3つ

幕府に衝撃をもたらした

大塩平八郎の乱は、すぐに鎮圧されて大塩平八郎が望むような結果は得られませんでした。しかしながら、元与力が武装蜂起をした事実は幕府をはじめ多方面に影響を与えます。

事態を重く見た幕府は、大塩平八郎や彼の一派を厳しく取り締まりました。大塩平八郎とその息子は40日後に隠れ家を取り囲まれて、自害。賛同者や共に反乱をおこした人たちも、自害したり、拷問刑に処されたりと、厳しい罰を受けました。

生田万の乱が起きる

その後、大塩平八郎の乱の情報はすぐに日本中に広まります。大塩平八郎は自害してしまいましたが、その思いは全国の苦しむ人々に波及して、各地で一揆や打ちこわしが相次いだのです。

その1つが生田万の乱(いくたよろずのらん)です。越後(現在の新潟県)の国学者生田万は、貧困に苦しむ人々を救うために柏崎陣屋を襲いました。生田万も反乱に失敗し、生田万本人と妻子も自害します。

天保の改革に繋がる

大塩平八郎の乱は、大塩の乱から4年経過した1841年の天保の改革に繋がります。天保の改革は老中水野忠邦が主導した改革です。水野忠邦は、幕府の支配力を強化しようと、厳しい倹約を求めました。華美な衣服や装飾品、高価なお菓子や料理など、贅沢を全面的に禁止したのです。

結局、天保の改革は庶民だけでなく大名らの反感を買ったことから、水野忠邦は失脚して、天保の改革は2年で失敗に終わりました。

大塩平八郎の乱から学べること

大塩平八郎の乱から学べることは「変化を起こすための行動とは何か」です。

大塩平八郎は徳川幕府に反乱を起こした人物として歴史に名を刻みました。しかし、彼の行動の根本は幕府の内部改革を願う気持ちでした。苦しむ民衆を尻目に汚職にまみれた体制を目の当たりにする中で、徳川幕府を思うからこそ、改めて欲しかったのでしょう。
しかし実力行使による決死の行動は幕府に衝撃は与えたものの、身を結ぶことはありませんでした。そして天保の改革で民衆はさらに苦しい生活を余儀なくされました。大塩が望んだ改革(変化)には繋がりませんでした。

このように、強行的な実力行使はかえって頑なな姿勢を生んでしまうことがあります。時代は変わって現代は民主主義の世の中。誰もが意見を主張できて、選挙で意思表示をすることが可能な時代です。変化を願ったときに取り得る行動の選択肢は江戸時代に比べて大きく広がっています。「急がば回れ」という言葉にあるように、思い切った実力行使だけではなく、地道に理解者を増やしていく方が、のぞむ変化に対して近道であるということもあるでしょう。今の時代に大塩が生きていたら、「知行合一」の考えの元、どのような行動を取るだろうか。そのようなことを考えてみることも歴史を学ぶ楽しみの一つです。

大塩平八郎の乱は庶民を救うために起きた

大塩平八郎の乱が、正義感が強い元与力であり、陽明学者の大塩平八郎が民衆を救うために起こした反乱です。

反乱は失敗に終わりましたが、その影響は多方面に及びます。大塩平八郎の乱にゆかりのあるスポットは大阪市に点在していますので、ぜひ訪れてみましょう。たとえば、大阪市中央区にある大阪歴史博物館には、菊池容斎による『大塩平八郎肖像画』、『出潮引汐奸賊聞集記』など、大塩平八郎に関する貴重な資料が収蔵されています。

アクセスマップ

名 称:大阪歴史博物館
時 間:9:30〜17:00 (なお、特別展会期中の金曜日は20:00まで)
休 日:火曜日(祝日の場合は翌日)/年末年始(12月28日から1月4日)
料 金:大人 600円(個人)540円(団体)/高校生・大学生 400円(個人)360円(団体)/中学生以下・大阪市在住の65歳以上の方・無料障がい者手帳等をお持ちの方(介護者1名を含む) 無料
住 所:大阪市中央区大手前4丁目1-32
電話番号:06-6946-5728

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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