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戦乱の風雲児、織田信長の生き様とは?子孫たちも尊敬! 

天才・織田信長…その片鱗を見せた若かりし日の破天荒な性格、そして有力な家臣たち

「尾張(おわり)のうつけ殿」

「うつけ」とは“大馬鹿者”という意味です。誰のことだかわかりますか?

そう、1467年に起こった『応仁の乱』から100年以上、実力者たちが各地で勢力をふるい対立していた戦国時代に風穴を開けて、天下統一の礎を作った英雄・織田信長(おだのぶなが)のことです。

織田信長は1534年、尾張(現在の愛知県西部)の戦国大名、織田信秀(おだのぶひで)の嫡男としてこの世に生を受けました。幼名は吉法師(きっぽうし)です。

百姓(異説あり)の子どもから成り上がり、後に天下を統一する豊臣秀吉(とよとみひでよし)に比べれば、織田信長は武家の生まれ。ですから、「豊臣秀吉に比べれば恵まれた環境にいたのでは…?」と思うかたもいるかもしれませんが、そんなことはありません。

織田家も元々は結構弱小だったのです。

当時、尾張は室町幕府に任ぜられた三管領のひとつの斯波氏(しばし)が領地を支配していました。織田氏はその重臣として現地の支配を任された守護代(しゅごだい)です。ただ、父の織田信秀は、織田家の本家ではなく分家筋で、織田本家に家臣として仕えていました。

ちなみに、「尾張のうつけ殿」こと織田信長が、どれくらい破天荒な性格だったかというと、珍妙な格好で城下町をものを食べながら闊歩(かっぽ)したり、父・織田信秀の葬儀で抹香を位牌に投げつけたりと、やりたい放題でした。

織田家の家督(財産や事業)を継いでも数々の奇行をする織田信長は、もちろん家の者からも馬鹿にされ、「織田家も終わりじゃ…」と憂えた家臣たちは、弟の織田信行(おだのぶゆき)を次の当主にしようと織田信長の暗殺を計画したり、挙兵して討ち取ろうとさえしました。しかし、家臣の企みはいずれも失敗に終わっています。

歳を重ねたところで織田信長が行動を改めるはずもなく、その振る舞いは相変わらずでした。

しかし、ただの“うつけ者”が後世に英雄として名を残せるわけがありません。彼の若かりし日々の奇行は、当時の人々から見て常識外れだっただけです。実はとても合理的で誰にも思いつかない発想を戦や経済政策に取り入れたからこそ、織田家は領地をどんどんと広げていくわけですが、それはまだ先のお話です。

桶狭間の戦いで一躍有名

尾張を統一したものの、依然うつけ者と評判だった織田信長の運が大きく開けたのは、かの有名な『桶狭間(おけはざま)の戦い』です。この合戦で隣国である駿河(するが)、遠江(とおとうみ)(ともに現在の静岡県)の超有力大名、今川義元(いまがわよしもと)を討ち取ると、織田信長の名は世に広く聞こえるようになりました。

その後、尾張の北部に隣接する強国、美濃(みの・現在の岐阜県)の斎藤氏を倒して拠点をここに移すと、越前(えちぜん・現在の福井県)の朝倉氏、近江(おうみ・現在の滋賀県)の浅井氏など近隣の大名を次々と滅ぼしていきます。

織田信長は敵対した将軍、足利義昭(あしかがよしあき)によって包囲網をつくられ危機に陥りますが、あきらめず一つ一つ敵を滅ぼして日本最大の大名になっていったのです。
さらに武力だけではなく、経済的にもその才を発揮しました。

当時は同業者の組合(座)が商業利益を独占していましたが、織田信長はこれを許さず、来住した商工業者に自由な営業活動を認め、経済を発展させました。この政策を「楽市・楽座」といいます。交通を阻害する関所も撤廃しました。織田信長が居城とした岐阜(美濃から改称)や琵琶湖畔の安土の城下町が大いに栄えたのには、こういった理由があったのです。

織田信長の快進撃の影には、有能な家臣団がいたことも忘れてはいけません。

有力な家臣に羽柴秀吉(はしばひでよし・後の豊臣秀吉)、明智光秀(あけちみつひで)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわいちます)などがいますが、羽柴秀吉や明智光秀のように素性のよくわからない部下や新参者を、才覚だけで重臣に引き上げるなんてことは、当時の他の大名ではなかなかできないことでした。彼は部下の才能を見抜く天才でもあったということですね。

朝倉・浅井両氏を破る少し前に将軍・足利義昭を追放し、室町幕府を事実上滅ぼしていた織田信長を、世間は「次の幕府を開くのはこの男だ」と注目していたことでしょう。

本能寺の変の悲劇、織田信長の死の直前の名言から学ぶ「教え」

次世代の天下人である織田信長は、ひとところに留まらず、戦に政策にと各地を奔走していました。
織田信長のその原動力は、彼の死生観に表れています。彼の好む舞に『敦盛』というものがありました。

「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり」

桶狭間出陣前にも、この節を舞ったといわれています。

50年という人間の一生なんて、天界に比べれば夢幻のように短い、という意味です。織田信長は『敦盛』を好んでいたことから、「人の人生は短いものだ」と心得ていたことがわかります。また、通常なら何代もかけて築き上げるものを一代でやり遂げてみせるという強い意志があったということ、これこそが彼が短期間で成功した秘訣であり、教訓といえるでしょう。

さて、織田信長は近畿地方もほぼ手中にし、甲斐(かい・現在の山梨県)の武田氏も滅ぼしました。

次なる目標は中国地方の平定(へいてい)。支配者は名家、毛利(もうり)氏です。この強敵さえ倒してしまえば、残りは九州の島津(しまづ)氏、四国の長宗我部氏(ちょうそかべし)、関東の北条(ほうじょう)氏、越後(えちご・現在の新潟県)の上杉(うえすぎ)氏など有力大名は数えるほどしかありません。そう、天下統一は目の前だったのです。

ですが、先だって中国攻略を進めていた羽柴秀吉の援軍に向かうその道すがら、宿泊していた京都の『本能寺』で悲劇が起こります。

「旗印は水色桔梗(ききょう)! 惟任日向守(これとうひゅうがのかみ・明智光秀)、謀反にございます!」

…寝床についた織田信長の耳に飛び込んできたのはまさかの知らせでした。

本能寺に滞在していた織田信長の部下数十人に対して、包囲する敵は1万人以上、しかも指揮をするのは戦上手で知られた明智光秀。万にひとつも逃げられないと悟った織田信長は、

「是非に及ばず!」

とのべ、弓そして槍を取り応戦に向かいます。

この言葉、諸説ありますが、「いろいろと考えても始まらない。戦うべし」という意味だったともいわれています。そうだとすれば、考えるよりまず行動を起こし、小大名一代で天下人に近づいた、織田信長らしい最期の名言です。

しかし、多勢に無勢。奮戦むなしく手負いとなった織田信長は死期を悟り、本能寺の奥へと引き返し、火を放って自害しました。

遺体は見つからなかったそうです。織田信長、このとき49歳。天下統一という大偉業が、織田信長の体とともに、夢幻となった瞬間でした。

――現代の日本人の平均寿命は80歳を超えていますから、「人間五十年」よりだいぶ長いわけです。が、80年であっても「天界に比べれば夢幻のように短い」ことには変わりありません。

ですから、みなさんのお子さまにも、織田信長のエピソードや死生観を教えたうえで、夢や目標ができたならばまずは行動に移すべきなのだ、ということをぜひ教えてあげてください。

織田信長が天下統一を夢見て居座った城『安土城』へ行ってみましょう

織田信長は生涯、『那古野城』(なごやじょう)、『清州城』(きよすじょう)、『岐阜城』(稲葉山城/いなばやまじょう)と拠点を移してきましたが、天下統一が現実的なものになってきた時期に築城したのが、琵琶湖の湖畔にある『安土城』です。金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)なども用いており、この絢爛なる城郭の姿には、織田信長が掲げた標語「天下布武」(てんかふぶ・織田家の力を全国にとどろかせる)を体現するに十分でした。ここで織田信長はこの世の春を謳歌しましたが、城完成の3年後に非業の死を遂げます。そして、織田信長の弔い合戦である山崎の戦いの前、『安土城』天守閣は焼け落ちてしまいました。現在は城跡を残すのみとなっていますが、その石垣の上から見る景色は、織田信長が天下統一を夢見て眺めたそれと、何も変わりはないのかもしれません。

アクセスマップ

名 称:安土城跡
時 間:9時00分~17時00分(受付は16時00分まで)(季節により変動あり)
休 日:無休
料 金:大人700円、小人200円
住 所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
電 話:0748-46-4234
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。

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