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黒船来航についての詳細5つ!黒船来航が浦賀となった理由とは?

※一部掲載内容に誤りがありましたので、2021年8月26日に修正しました。申し訳ございませんでした。

黒船来航とは

黒船来航とは、1853年6月にアメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが率いる軍艦4隻が江戸湾(現東京湾)に現れたことを指します。

当時の日本では、欧米の軍艦は黒く塗装されていたことから、「黒船」と呼ばれ恐れられていました。「黒船」という言葉は豊臣秀吉の時代から使用されていたようです。なお黒船が日本を訪れたのはこれが最初ではありません。18世紀末からの欧米列強の来航に限っても、ペリー艦隊の来港は通算10度目の外国船の来航でした。

では彼らは何をしに日本にやってきたのでしょうか。

黒船来港についての詳細5つ

ここからは黒船来航が浦賀になった理由やペリーの目的、当時の幕府の対応などについてみていきましょう

黒船来航が浦賀となった理由

ペリーが停泊する港として浦賀を選んだ理由は、海図にありました。当時の日本は外国船が江戸湾の奥に入ることを禁じていたため、欧米諸国の船は江戸湾に侵入できません。したがって、測量ができず安全な航海のために必要な測量も行えなかったのです。そこで江戸に近く、なおかつ侵入禁止ラインより手前の浦賀に停泊したのです。

当時の日本には鎖国政策が敷かれ、外国船が来航できるのは長崎の出島に限られていました。ペリーが長崎ではなく浦賀を選択した理由は、幕府への圧力をかける目的があったと考えられています。江戸から遙か遠い長崎よりも、江戸の目と鼻の先である浦賀のほうが、幕府の首脳を威嚇できますからね。

ペリーの目的

ペリーが日本を訪れた理由は、アメリカ大統領からの親書を将軍に渡すことにありました。大統領の親書には、捕鯨船が難破した際に助けて欲しいというような内容が記載されています。

アメリカでは中国貿易や捕鯨のために太平洋を航行する船が増えており、日本の港で食料や燃料を補給したいとの要望が増加していたとのこと。アメリカはこういった背景を踏まえて、日本に開港を求めるため浦賀を訪れたのです。

当時、ロシアや欧州各国も日本との繋がりをもとうとしていましたが、のらりくらりとした幕府の外交にかわされ、限定的な交流に止まっていました。ペリーはそういった外交スタイルでは日本の意思決定を促せないと思い、強硬的な態度で迫ってきました。

当時の国民や幕府の反応

日本の対応窓口は、浦賀奉行所です。当時は浦賀奉行所が異国船の応対任務を負っていました。当初浦賀奉行所の担当者はフランス語で、「ただちに退去せよ」とフランス語で書かれた横断幕を掲げましたが、ペリー側の反応はなし。

そこで奉行所の役人がサスケハナ号という旗艦に乗り込み、来航の目的を知りました。

江戸幕府側は「長崎に行くように」と告げますが、ペリー側は江戸の近くで親書を渡したいとの主張を曲げず、結局浦賀の地で親書を受け取ることになったのです。ペリー上陸の様子は「ペリー上陸絵図」など日米さまざまな絵画資料が残されており、当時の様子を伺い知ることができます。

黒船来航によって、欧米諸国との差を思い知った幕府は、欧米の事情調査や語学習得等のために「洋学所」や、洋式航海術を学ぶ「長崎海軍伝習所」を設立して、西欧文化の吸収に励みました。幕府だけでなく、長州藩や薩摩藩、佐賀藩なども洋式の軍事技術の導入に積極的でした。

国民は突然の黒船来航に、驚き恐怖を覚えていました。ところがしばらくすると、好奇心のほうが強くなり、黒船を見物する庶民たちが続出します。「黒船来航風俗絵巻」という黒船来航の際の人々の様子を描いた絵には、「異船見物無用」との立て札が描かれていることからも、多くの人が黒船を見物しに殺到したと推測できます。

黒船来航によって、諸外国との貿易がスタートすると、庶民の生活にも影響が出始めました。人々が大きな不満を抱いたのが、物価の急上昇です。生糸や茶などの輸出が急増したため、国内での供給が不足してしまい、物価が上がってしまったのです。

日米和親条約とは?

ペリーは江戸幕府に開国について、日本の回答を引き出そうと威圧的な態度で交渉に臨みます。一方で日本側の対応窓口の老中阿部正弘は、「翌年に回答する」として、一旦ペリーを退去させました。

そして約束の期日である1854年1月、今度は軍艦9隻を率いてペリーが江戸湾に入港します。そして3月3日に日米和親条約が締結されたのです。

日米和親条約の主な内容はこちらです。

  • アメリカ船に水・食料・燃料などを供給すること
  • 下田と函館を開港すること
  • 下田にアメリカ領事を駐在させること
  • 日本はアメリカを最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)すること


アメリカと日米和親条約を結んだことで、イギリス、オランダ、ロシアとも同様の条約を結ぶことになり、日本の鎖国体制は終わりを告げます。

日米修好通商条約とは?

日米修好通商条約は、日米和親条約の2年後に締結されたアメリカとの貿易に関する条約です。アメリカ側は、中国がイギリスとフランスの連合国に敗れて不平等条約を結んだことを引き合いに出して、条約調印を迫ります。

とはいえ、国内は攘夷(じょうい)の風潮が強く、条約を締結するためには天皇の勅許(ちょっきょ)が必要であると意見する大名が少なくありません。

そこで当時の老中堀田正睦が天皇に勅許を出すように求めました。ところが、その間に大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、日米修好通商条約に調印したのです。

日米修好通商条約の主な内容を確認しておきましょう。

  • 江戸にアメリカ公使が在住すること
  • 江戸と大坂の市場を開放すること
  • 神奈川、長崎、兵庫、新潟の開港
  • アメリカに領事裁判権を認める
  • 自由貿易を認める
  • 関税は両国で協議して決める(関税自主権がない)


日米修好通商条約は、領事裁判権をアメリカに認めていた点、日本に関税自主権がない点など、日本に不利な条項があり、不平等条約と呼ばれています。

黒船来航から学べること

黒船来航から学べることは、時代の変化はあるタイミングから急速に加速するということ。江戸時代といえば鎖国、というイメージが強いですが、実はペリー来航まで約250年の間に多くの外国船が訪れています。様々な交流や事件も起こっていましたが、関ヶ原の戦い以降の大きな時代の流れを動かすまでは至りませんでした。

それが強行的な態度で幕府の喉元に向かってきた4隻の軍艦によって、時代は大きな変化を迎えることになります。その後、さらに欧米の進んだ技術、武力に危機を抱いた各藩の藩士や藩主を中心に攘夷論が巻き起こり、最終的には江戸幕府が倒されることになります。

ポイントは、ペリーの来航はあくまでも最後のきっかけであって、時代の変化につながるような出来事は約250年の間に積み重なってきていたということです。何度も変化につながりそうな出来事がありながら変化しない世界を見ていると、人間は「もうこの世界は変化しないんだ」という先入観を強めていきます。

当時の人たちもそうでした。ペリー来航に驚きながらも、まさかこれが250年続いた江戸幕府の終焉に繋がっていくとは思ってもいなかったでしょう。しかし変化の種火は常にありつづけたのです。

今の時代の平和や日常も、当たり前ではないかもしれません。歴史を学ぶと、こういう大きな流れを知ることができます。日頃の様々な出来事やニュースが、これからどういう未来を作っていくのかを想像してみると違った視点を得られます。

黒船来港について理解しよう

黒船来航は、日本が長らく享受した平和を乱すきっかけになりました。黒船来航により200年告げた鎖国体制は終わり、さらに江戸幕府による支配が揺らぐことになります。

黒船来航についてさらに詳しく知りたい方は、下田開国博物館を訪れてみましょう。ペリーや初代領事のハリスに関する展示など、黒船来航にまつわる興味深い展示が目白押しです。

アクセスマップ

名 称:下田開国博物館
時 間:午前8時30分〜午後5時30分
休 日:年中無休(臨時休館あり)
料 金:大人1200円、小中学生600円
住 所:静岡県下田市4-8-13
電 話:0558-23-2500

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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