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壬申の乱はなぜ起こったのか?勝者が天皇となった壬申の乱のポイント4つ

壬申の乱が起こった原因

壬申の乱(じんしんのらん)は飛鳥時代に、大海人皇子(おおあまのおうじ)と大友皇子(おおとものおうじ)のふたりが繰り広げた皇位を争った内乱です。大化の改新と呼ばれる政治改革を進め、中央集権国家の建設を目指していた天智天皇(てんじてんのう)が671年に崩御。彼らが争うことになったきっかけは、その天智天皇の掟破りの心変わりにありました。

壬申の乱のポイント4つ

大海人皇子と大友皇子は叔父と甥の関係

大海人皇子は天智天皇の弟、大友皇子は天智天皇の子ども。ふたりは叔父と甥の関係です。

当時の天皇家のルールでは、天皇に同じ母から生まれた弟がいる場合は、現行の天皇の後継者は弟であるとされていました。つまり大海人皇子が正統な後継者です。

ところが、天智天皇は弟よりも自分の子どもである大友皇子を後継者にしたいと考えました。天智天皇の決断をきっかけに、彼らは皇位を巡って争うようになったのです。

大海人皇子は一度吉野で僧になっている

天智天皇は、本来は大友皇子を後継者にできないことはわかっていたため、一計を図りました。病床に大海人皇子を呼び出して、「皇位を譲る」と伝えたのです。返答によっては、大海人皇子を亡き者にする手筈でした。

ところが、大海人皇子は機転を利かして天智天皇の提案を断ります。

「病気がちだから国家を守ることはできません。出家して吉野にこもります」と返答したのです。

宣言通り、大海人皇子はその後出家して、妻とともに都である「大津京」(現在の滋賀県)を出て吉野宮にうつりました。ちなみに、この妻とは、後の「持統天皇(じとうてんのう)」です。

大海人皇子を吉野に行かせたことについては、「虎に翼をつけて放てり」と評されたと伝えられており、朝廷から危険視されていたことがわかります。

一説によると妻である後の持統天皇が、大海人皇子に皇位を継承させるために、「吉野に退き戦争の準備をして、天智天皇の崩御後に大友皇子を滅ぼそう」と説得したともいわれています。この説が正しければ、大海人皇子を吉野に行かせることは、まさに虎に翼を授けたようなものですね。

大海人皇子は吉野に身を隠したことについて、後に「み吉野の 耳我の嶺(みみがのみね)に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は零りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隅もおちず 思ひつつぞ来し その山道を」と歌っています。

要約すると、「吉野の耳我の嶺にはずっと雪が降っていた。雪や雨が絶え間なく降るように、沈んだ気持ちで山道を行き吉野に来た」という内容です。「虎に翼を」と評されたものの、本人は決して意気揚々と吉野に行ったのではなく、まさに都落ちの気持ちで吉野へ向かったことがわかります。

天智天皇が崩御後、朝廷では大海人皇子を滅ぼそうと吉野に食料を運ぶ道を閉ざそうとするなどの動きがみられました。また、朝廷側が天智天皇の墓を作る作業員を集めていた際、彼らが武器を持っていたという情報を入手します。

このような状況下で、「むざむざ討ち滅ぼされるよりも先手を打つのが得策」と考えたのか、大海人皇子は挙兵を決断します。

壬申の乱の経過:何回かの戦いを経て、672年に大海人皇子の勝利で収束

672年、大海人皇子が挙兵しました。日本古代史最大の戦である「壬申の乱」です。挙兵したときはわずか20人の従者と女官だけであったと伝えられています。

壬申の乱の戦場となったのは、現在の奈良県、三重県、滋賀県、岐阜県、大阪府です。地図で確認すると各地で転戦していることがわかります。この際に、桑名で大海人皇子が宿泊したとされる「桑名郡家」は今も天武天皇社として祀られています。

大海人皇子は、朝廷と東国を分断するべく美濃国(現在の岐阜県)に向かいました。各地の豪族や舎人(下級官人)は、大海人皇子の動きに呼応して反乱に乗じます。最初は少なかった大海人皇子の戦力は、朝廷側に不満を持っていた豪族らの参加により、にわかに増強。最終的には大海人皇子が勝利しました。

最大の決戦は「瀬田唐橋の決戦」といわれています。その戦いの翌日、敗北した大友皇子が自害。大海人皇子が吉野で挙兵してからおよそ80日経過しているので、2ヶ月以上も続く戦いとなりました。

壬申の乱の結果、673年に大海人皇子が即位し「天武天皇(てんむてんのう)」となります。その後、天武天皇は皇族を中心とした天皇政治を強化していきました。

自ら命を絶ったといわれている大友皇子ですが、その終焉の地は定かではありません。

戦う場所に関ヶ原が関わっている

実は壬申の乱には、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」の舞台として有名な後の関ヶ原古戦場も関係しています。大海人皇子が本拠地を置いたのは現在の関ケ原町の丘陵地で、当時は「野上行宮(のがみあんぐう)」とされています。

また関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が陣を置いたとされている「桃配山(ももくばりやま)」に本拠地を置いていたともいわれています。実はこの桃配山は、大海人皇子が村人から献上された山桃があまりにもおいしかったため、兵たちに配ったエピソードにちなんで名付けられたという説もあるようです。

壬申の乱からの学び

壬申の乱で注目したいのは敗者になった大友皇子の記録上の取扱いと、即位した大海人皇子が家族と交わした盟約です。

「歴史は勝者が記録すること」がわかる日本書紀での大友皇子の取扱い

時系列をおさらいすると、天智天皇が崩御してから大海人皇子が壬申の乱で勝利をおさめるまでの期間は約7ヶ月。大友皇子はその間、天皇として政治を行っているはずです。

ところが当時の日本の重要な史料であるとされている「日本書紀」には大友皇子が即位したとは記載されていません。即位する前に自害したとされているのです。

しかしながら、7ヶ月間も天皇が空位になるとは考えにくく、実際には即位していたはず。さまざまな史料に、大友皇子の子どもを「皇太子」と記してあり、大友皇子が即位していたと考えるほうが自然です。

なぜ、日本書紀は「即位前」としたのでしょうか。この矛盾については、江戸時代の歴史家伴信友によっても問題提起されています。日本書紀は日本の正史として藤原不比等(ふじわらのふひと)らによって編纂されました。

実は、日本書紀を編纂したメンバーのひとりが「舎人親王(とねりしんのう)」という大海人皇子の第三皇子だったのです。

「大友皇子が即位した」と記載すれば、大友皇子らを討ち滅ぼした大海人皇子は「朝敵」となります。現行の天皇を死に追いやった重罪人です。父であり天皇である大海人皇子が、後生非難されるような記録は残したくないと考えるのは当然のこと。なお、明治維新後に、大友皇子は即位したとして「弘文天皇(こうぶんてんのう)」と名付けられています。(ただし、本当に即位していたのか否かについては現代においてもなお議論されています)

このように事実認識に対して現代の視点から異説が生まれることは、歴史上では珍しいことではありません。歴史は、「常に勝者によって記録されている」ということは歴史を学ぶ上でとても大切な視点です。

古文書や歴史書で調べる際は、「誰がなんのために書いた記録なのか」と問うことが大切です。この「疑う姿勢」は歴史の記録だけでなく、インターネットに投稿された文章や動画などにも当てはまります。「情報の正しさを疑う姿勢」は、情報が溢れる現代社会に生きる私たちにとっては、欠かすことのできないスキルです。

天武天皇から子どもたちへ向けたメッセージ

679年、天武天皇は皇后と子どもたちを連れて吉野宮に赴きます。大海人皇子には幾人もの妻がおり、17人の子どもがいました。そのうち高市皇子ら四人を連れて吉野で「お互いに助け合う」と誓いあったとされています。

自身が甥っ子である大友皇子と争った苦い経験から、子どもたちには同じ失敗をして欲しくないと考えたのでしょう。

天武天皇の願い通り、天武天皇の崩御後は兄弟間での皇位継承争いは起きず皇后が「持統天皇(じとうてんのう)」として即位しました。これは天武天皇と皇后の間の子どもが即位可能な年齢になるまでのつなぎであったといわれています。皇子が複数いたにもかかわらず、女性が天皇になったということは皇子たちの統制がとれていたからではないでしょうか。皇子たちは天武天皇の教えを守ったといえます。

壬申の乱が起こった原因について知ろう

これまでお話ししたように、壬申の乱は叔父と甥が皇位を争った戦いでした。壬申の乱のきっかけは大海人皇子の兄であり、大友皇子の父である天智天皇の「掟破り」です。

ルールでは大海人皇子が皇位を継承すべきところを、息子の大友皇子に継がせたいと考えたことから壬申の乱が発生しました。

結局、壬申の乱では大海人皇子が勝利。天武天皇として即位します。

大海人皇子こと天武天皇が開眼した「薬師寺」に行ってみましょう

世界遺産「薬師寺」は大海人皇子が皇后である後の持統天皇の病気平癒を祈願して創建したお寺です。「凍れる音楽」との異名を持つ東塔や薬師三尊像などの文化財が今なお残っているので、当時の文化をふんだんに感じ取れます。

大海人皇子が生きた時代に花開いた白鴎文化の素晴らしさを現代に伝える貴重な文化財の数々の実物をぜひ見に行ってみましょう。

アクセスマップ

名 称:薬師寺
時 間:8時30分~17時00分(入山申込受付は16時30分まで)
休 日:無休
料 金:白鳳伽藍(はくほうがらん)・玄奘三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)の拝観料 お正月1/1~1/15、春季3/1~6/30、お盆8/13~8/15、秋季9/16~11/30の期間中 大人1100円、中高生700円、小学生300円白鳳伽藍のみの拝観料 上記期間以外 大人800円、中高生500円、小学生200円
住 所:奈良県奈良市西ノ京町457
電 話:0742-33-6001
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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