2024/06/24

ポストコロナの社会課題とこれからの教育研究の方向性

激しい社会変化のなかで、子どもや大人の生活や学びはどのように変化しているのか。
そこに現れるさまざまな社会課題に対して、ベネッセ教育総合研究所はどのような取り組みをしているのか。
当研究所の研究員たちが、自身の研究も踏まえながら課題や展望を論じます。
ベネッセ教育総合研究所 所長 野澤 雄樹
野澤 雄樹
 2020年に始まったコロナ禍によって,多くの社会課題が見えにくい状態になっていたように思う。コロナ禍という霧が晴れた今——これ自体は喜ばしいことであるが——これまでどこか楽観的に,いずれなんとかなると考えていた社会課題が,夏休みが終わる3日前に手付かずで残った宿題のように,厳しい現実として認識されるようになった。代表的な社会課題は少子化の急激な進行で,厚生労働省が発表した「令和5年(2023)人口動態統計月報年計(概数)の概況」によれば,2023年の合計特殊出生率は1.20であり (厚生労働省, 2024),コロナ禍が終息に向かっていた時期であったが,回復には転じなかった。世界的には,いわゆる西側諸国とそれ以外の国や地域との対立が深まり,気候変動のような地球規模の課題を協調して解決する機運は後退しつつある。また,そのような対立に伴う経済活動の制限は,物価高騰の要因の1つにもなっており,貧困や格差の問題を加速させている。
 多くの社会課題の中でも,AI技術の進歩によってもたらされる負の影響は極めて深刻な脅威であると思われる (注1)。少子化や気候変動などはある程度時間をかけて進行するため,対策を講じる余地があるのに対し,AI技術の進歩は指数関数的で,気付いたときには手に負えない状態になっている可能性がある。例えば,AIが生成した文章・画像・音楽・発話音声・動画を人間が作成したものと見分けることは,すでに人間の感性に頼る方法では不可能になってきている。本物と見分けることが困難な偽情報がAIによって大量に生成され出回るようになれば,我々が物事を判断する上で絶対的な拠り所である「事実」や「現実」を共有することが難しくなる。各人が自分に都合のよい情報を信じ,他者の提示する証拠は捏造だと否定することで,個人間・社会集団間の分断が決定的になっていく可能性がある。
 前置きが長くなったが,いま我々の目の前で起きている変化は,「VUCA (注2)」という言葉で表現され,議論されてきたよりも遥かに深刻な課題を抱えているように思われる。OECDにおいてVUCAな時代における教育のあり方について検討した Future of Education and Skills 2030プロジェクトが開始されたのは2015年であり,第1フェーズが完了したのは2019年である (OECD, 2019)。その当時,AI技術は著しい速度で進歩していたものの,汎用性の高い生成AIがこれほど早く実現されると考えていた人は少なかった。また,その時点ではコロナ禍やウクライナ侵攻も起こっておらず,グローバル経済に対する懸念も大きくなかった。ここ数年間における社会の急激な変化を考えると,これからの社会において教育の果たすべき役割と,その役割を果たすための具体的なアプローチについて,もう一度見直していく必要があると思われる。
 このような現状認識に基づき,ベネッセ教育総合研究所では以下に示す3つのリサーチクエスチョンを設定し,それらに答えるための研究を行っていく予定である。
1. OECD Future of Education and Skills 2030などのプロジェクトで想定されていた2030年の社会像と,現在向かっている2030年の社会像にギャップは生じているか。もしギャップが生じている場合,2030年に向けて必要と考えられるコンピテンシーおよびその構成要素(知識・スキル・態度・価値観など)に変化は生じているか。さらにその先の2040年の社会を考えたときに,必要となるコンピテンシーおよびその構成要素はどのようなものか。
研究1
 リサーチクエスチョン1に対するアプローチは文献調査とデータ分析が中心になる。2040年の社会についてすでに様々な議論や考察が行われており (e.g., 産業構造審議会・経済産業政策新機軸部会, 2024),第4期教育振興基本計画 (閣議決定, 2023) においても2040年以降の社会を見据えた教育政策の基本的な方針が示されている。官公庁が発行している資料やOECDなどの国際機関が発行している報告書を中心に調査しながら,2040年の社会像とそこで求められるコンピテンシーおよびその構成要素について仮説立てを行う。並行して,ベネッセ教育総合研究所が保有している長期縦断データの分析や,公開されている統計データの分析を進めることで,仮説が妥当であるかの検討を進める。
2. これからの社会において必要となるコンピテンシーはどのようにして身に付けることができるのか。教える側はどのような学習体験を提供し,学ぶ側はどのような活動をすることで効果的にコンピテンシーを育むことができるのか。
研究2
 リサーチクエスチョン2は,研究1を通じて仮説立てしたコンピテンシーおよびその構成要素について,着実な育成方法を明らかにしようとするものである。研究2では,園や学校における実践研究を進める予定である。中央教育審議会によって出された「令和の日本型学校教育」に関する答申では「個別最適な学び」と「協働的な学び」が重視されているが (中央教育審議会, 2021),これらの学びを効果的に実践するためには,多くの試行錯誤が必要である。どのように教えるべきかというインストラクショナル・デザインの視点と,どのように学ぶべきかというラーニング・サイエンスの視点の両方を重視したい。また,第4期教育振興基本計画 (閣議決定, 2023) では子どもたちと地域コミュニティのつながりの強化が重視されていることから,園や学校での活動に地域社会の特性を生かした学びをどのように組み入れるかについても研究のスコープに含めたい (注3)。
3. これからの社会において必要になる知識・スキル・態度・価値観などをどのように測定・評価するのか(あるいは測定・評価しないのか)。また,それらを統合して発揮されるコンピテンシーをどのように測定・評価するのか(あるいは測定・評価しないのか)。
研究3
 リサーチクエスチョン3は,研究1を通じて仮説立てしたコンピテンシーおよびその構成要素について,正確に測定・評価する方法を明らかにしようとするものである。研究3では,最新の技術(ICT技術やAI技術)を活用することで,コンピテンシーおよびその構成要素を十分な精度で測定・評価できるかについて研究する。ただしこの研究は,測定・評価ありきで進めるわけではない。測定することが技術的に可能か検討し,十分な精度が得られないようなら測定しないという選択肢もあり得る。また,技術的には測定することが可能だとしても,それを実際に測定し,評価につなげることが社会にとって負の影響を与えると予想されるのであれば,測定・評価の対象にしないという判断もあり得る。
 これら3つの研究を着実に進めることで,深刻化する社会課題に対応した新しい教育の実現に貢献していきたい。

引用文献

中央教育審議会 (2021). 「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申) https://www.mext.go.jp/content/20210126-mxt_syoto02-000012321_2-4.pdf
閣議決定 (2023). 教育振興基本計画 https://www.mext.go.jp/content/20230615-mxt_soseisk02-100000597_01.pdf
経済産業省・産業構造審議会・経済産業政策新機軸部会 (2024). 経済産業政策新機軸部会第3次中間整理 https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/shin_kijiku/pdf/20240607_1.pdf
厚生労働省 (2024). 令和5年(2023)人口動態統計月報年計(概数)の概況 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai23/dl/gaikyouR5.pdf
OECD (2019). OECD Future of Education and Skills 2030: Project Background. https://www.oecd.org/education/2030-project/about/E2030%20Introduction_FINAL_rev.pdf
(注1) もちろん,AI技術の進歩がもたらす膨大なメリットについて理解した上での議論である。
(注2) VUCAはVolatility (変動性), Uncertainty (不確実性), Complexity (複雑性), Ambiguity (曖昧性) の頭文字を組み合わせた用語であり,「先行きが不透明で,将来の予測が困難な状態」を意味する。
(注3) 研究2は園や学校における実践研究を中心にしているが,家庭における学びもコンピテンシーおよびその構成要素を育む上で非常に重要である。家庭における学びについては各種調査を通じて研究を進め,実践研究を通じて得られる知見との統合を図っていきたい。

プロフィール

野澤 雄樹
ベネッセ教育総合研究所 所長
のざわ ゆうき
アイオワ大学大学院教育学研究科博士課程修了(Ph.D. in Psychological and Quantitative Foundations)。専門は教育測定学。ACT, Inc.研究員(Research Associate in Measurement Research)を経て株式会社ベネッセコーポレーション入社。ベネッセ教育総合研究所において主席研究員、資質能力測定研究室室長、学習科学研究室室長を経て2023年1月より現職。