2016/04/21
「発達障害のある子どもたちの学びに関わる問題」 有識者レビューときっかけシート
きっかけシート
2015年度のCO-BOでは、発達障害のある子どもたちの学びに関わる問題について、本人、保護者、学校、医師、地域特別支援教育コーディネーターといった立場の異なる5人の有識者のみなさまにお話をうかがいました。
そのお話の内容を独自に編集したのがこの資料です。
そのお話の内容を独自に編集したのがこの資料です。
資料をふまえた有識者のみなさまのコメントもご紹介していますので、是非ご覧ください。
CO-BOは与えられた課題について考えるのではなく、「何を考えるかを考える」ことを大切にしています。
よって、この資料には検討すべき課題の提示もなく、もちろん正解もありません。あくまで問題について考えるためのきっかけとしてご利用いただければ幸いです。
よって、この資料には検討すべき課題の提示もなく、もちろん正解もありません。あくまで問題について考えるためのきっかけとしてご利用いただければ幸いです。
なお、本資料を学校やそれに準じた場で自由にご利用いただけます。
学びの現場でご活用いただいた際には、その様子をお知らせいただけますと幸いです。
学びの現場でご活用いただいた際には、その様子をお知らせいただけますと幸いです。
開設中のFacebook 等での、ご意見やご感想をお待ちしています。
資料1:「発達障害のある子どもたちの学びに関わる問題」きっかけシート
資料2:発達障害とは何なのか?
資料3:「発達障害のある子どもの学び」現状
資料4:「発達障害のある子どもの学び」取り巻く環境
資料5:CO-BO「発達障害のある子どもの学び」に関わる社会問題の構造(仮説)
CO-BOチームの作成した「発達障害のある子どもたちの学びに関わる問題」の構造(仮説α版)に対し、フォーラムにご登壇いただいた有識者の皆さまからコメントをいただきました。
お茶の水女子大学 榊原洋一教授
■真のインクルーシブ教育実践を
発達障害という概念が、社会一般に広く知られるようになったのは、2002年の文部科学省の通常学級において発達障害の特徴を持つ子どもが6.3%もいるという報告であるので、すでに15年近い年月がたっている。
その間に、発達障害の医学的研究などによって、その存在は広く社会に認知されたといって良いだろう。近年は、発達障害児に対する 特別支援教育の実装として、インクルーシブ教育の実践が全国で展開されている。
その間に、発達障害の医学的研究などによって、その存在は広く社会に認知されたといって良いだろう。近年は、発達障害児に対する 特別支援教育の実装として、インクルーシブ教育の実践が全国で展開されている。
しかしながら、発達障害の行動特徴を持つ子どもに対して、園や学校で具体的にどのように対応すれば良いのか分からないという現場からの声が多く聞かれる。その結果かもしれないが、通常学級に在籍する発達障害の子どもは、障害児教育などの専門家のいる特別支援学校に行ったほうが、より良い教育環境で学習できるという素朴な思いが、教員の中に敷衍(ふえん)しているように思う。インクルーシブ教育の本来の意味は、障害のある子どもが通常学級で教育を受けることのできる体制を作ることであることを想起すると、 日本の現状はまだまだ不十分であるという認識を持つ必要があると思う。
学校や園での、発達障害のある子どもへの対応の蓄積は、現場にあるはずであるが、ともすると診断を含めて医師や心理、あるいは障害児教育の専門家に「紹介」することに力点がおかれがちである。
教育現場に求められていることは、ここの現場でこれまでに蓄積された実践を、日本中の教育現場に敷衍することではないだろうか。
教育現場に求められていることは、ここの現場でこれまでに蓄積された実践を、日本中の教育現場に敷衍することではないだろうか。
■CO-BOの読者である学生の皆さまへのメッセージ
日本の教育現場においては、障害のある児童生徒は、定型発達の児童生徒から切り離されて教育するという流れが一般的であったた め、実際に障害児といっても、どのような子どもなのか理解できない学生さんが多いと思います。まず、障害のある児童生徒のいる学 校で、実際にそのような子どもと一緒に過ごしてみる時間を取ることが特別支援教育について学生さんが理解を深めるための第一歩ではないでしょうか。
NPO法人特別支援教育研究会 未来教室 秋山明美先生(東京都文京区立柳町小学校 元校長)
■すべての子どものための特別支援
大手の書店の教育関係コーナーに行ってみると「特別支援教育」に関する書物が多いことに驚かされます。これは、人が興味を持っているというだけでなく、この分野が社会で問題視されるようになってきたということです。
「発達障害のある子どもの学び」という課題を解決するためには、教育現場だけで何とかしようとしても解決にはつながりません。いずれ社会に巣立っていく若者の受け皿として、医療、行政、そして社会が支援体制を強化していかなければ根本的な解決にはつながらないでしょう。
しかし、そうは言っても義務教育の段階で、「小さな共生社会」を経験させ、そこで学んだ子ども達が、義務教育後も「誰もが住み やすい共生社会」を自分達の手で作りあげていこうとするきっかけを作っていくことは初等教育の大きな役割の一つでもあると思います。
学校での指導体制が整っておらず、難しい面もあるかとは思いますが、特定の学校や地域だけでなく、少なくとも公立学校においては、この課題を、他人事と捉えず各々の立場でできることから始めるべきとも思います。 それは、発達障害のある子どもにだけに優しい教育ではなく、すべての子ども達の教育環境を整えることにつながると思います。 現時点での取り組みが、今後さらに拡大され、特に、学校という教育の場で、一歩も二歩も前進した取り組みがなされることを期待しています。
■CO-BOの読者である学生の皆さまへのメッセージ
自分の周りに、「ちょっと変わっているな?」と思う人はいませんか。こだわりが強かったり、予定の急な変更を受け入れられなか ったりといろいろな特性を持つ人がきっといるはずです。その人達を特別な目で見るのではなく、その人のこだわりも個性として認め、関わっていけることが大事と思います。
ある特別支援学校の副校長先生に「慣れることこそ、その人を受け入れたことになる」と言われたことがあります。
発達障害を知識として理解することも必要ですが、頭だけで理解しようとせず講演会やいろいろなイベントに参加して実際に触れ合う ことにより、自分なりの理解ができてくると思います。
金子みすゞさんが残した「みんなちがって みんないい」の言葉が意味する社会を皆さんが築いてくださることを願っています。
筑波大学附属大塚特別支援学校 安部博志先生
■成功体験に導くのは愛
仮説の「何が起きているのか」で、「周囲の理解不足から自尊感情が傷つけられ・・・」とあるが、果たしてそれだけだろうか? 失敗 体験を繰り返す中で、ダメージを受けている子どもは少なくない。まずは、困っている子どもを成功体験へと導くことができる教師の専門性こそ鍵であると思う。「理解」とは「愛」だから、周囲に要求することはできない。分かるようになれば自分を好きになれる。できるようになれば、そんな自分をもっと好きになれる。“障害"は治らないかもしれない。 しかし、人生を前向きに生きていくことは可能である。成功体験へと導いて、ポジティブな言葉のシャワーを、たくさん浴びせてあげることである。
同じく仮説の「何が起きているのか」で、「学校を卒業した後のことを考えた教育がなされておらず…」とあるが、そもそも「卒業した後のことを考えた教育」とは何か、そこが吟味されなくてはならない。就職や社会生活で困らないための知識やスキルなのか、学力なのか、はたまた人生をより豊かに生きていくための知恵なのか・・・豊かさとは何か? 幸せとは何か? 何のために生きるのか? 教育とは何か?・・・その人の価値観が問われる。
最後に「今みえてきていること」で「人員やノウハウから、質的量的に対応するのは難しい」とあるが、たとえ人手やノウハウが十分あっても、愛がなければ始まらない。
愛とは、自分ではない他者を分かろうとする意志であり、了解することであると私は考える 。
愛とは、自分ではない他者を分かろうとする意志であり、了解することであると私は考える 。
■CO-BOの読者である学生の皆さまへのメッセージ
妻からよく言われます。「あなたは変わっている」と。でも、私は、自分の中の変わっている部分が大好きです。それがないと、私が私でなくなってしまうような気さえします。発達障害の人も変わっている人が多い。私は、彼らの変わっている部分こそ魅力だと思います。多少、空気なんか読めなくてもいい。自分の中の変わっている部分が大好きで、自信をもって生きていってほしいと願わずに はいられません。周囲が『了解』すればいいだけの話なのですから。「あなたが、そこでそうしていることにも意味があり、私がここでこうしていることにも意味がある・・・」そんなふうに互いの存在を尊重し、異質なものや少数派を排除しない生き方って素敵だと思いませんか? そんな世界にしたいと思いませんか?
特定非営利活動法人 全国LD親の会 東條裕志理事長
■いろいろな人がいることに対する理解を
発達障害は、発達障害の特性(苦手な部分があること)自体よりも、「苦手なことがあることを認めてもらえない」ことの方が大き な問題となっている。
その原因の一つは、「発達障害について正しい知識」が広まっていないからである。親が自分の子どもを客観的に見ることは難しいし、そもそも、普通の親は発達障害の専門家ではないので、子育てが難しくても、発達障害が原因かもしれないと気が付くのに時間が かかる。特に、発語が遅くない場合は、極端に多動だったりしない限り、早期発見が難しい。また、支援者(医師、保健師、保育士、 幼稚園・小中学校教員等)も発達障害の正しい知識を持っているとは限らず、また、対応策も持っていないことが多いため、当事者の 子どもやその親に対して適切な対応を取ることができないだけでなく、子どもや親を追い込んでしまう場合がある。親も支援者も子どもを追い込んでしまう場合が多い。
もう一つの原因は、「誰でもこのぐらいできるだろう」というあまり論理的とは言えない思い込みである。「個性を尊重する」とは 口では言っても、「みんなと同じようにでき」たうえで「他の子に無いものを求める」というのが親を含めた実際の思いであろう。そのような社会では、誰かが勝手に思った「このぐらいはできるはず」なことがある人にとっては「非常に困難なこと」であることを正しく認識してもらうことが難しい。
「発達障害」と「いろいろな人がいること」に対する正しい理解が広まることを願う。
■CO-BOの読者である学生の皆さまへのメッセージ
「世の中にはいろいろな人がいる」という実感を持つことができますか? どれぐらいの「違っている項目」を考えることができます か? 性別・年齢・生活環境・各種の能力・経験などを考えれば、人の特性は数本の物差しで測れるものでは無いことが分かるはずです 。 世の中の人は、当然のことながら、みんな違っています。違っているから面白いのです。得意なことも苦手なことも千差万別です。自分が苦手なところをさりげなくフォローしてもらったらうれしいと思いませんか?
特別なことをする必要はありません。「この人はどうしたいのか? 何に困っているのか?」考えることから始めましょう。
NPO法人発達障害をもつ大人の会(DDAC) 広野ゆい代表
■違いを認める教育環境を
発達障害という言葉自体がほとんど知られていなかった頃に子ども時代を過ごしたことで、親にも学校にも理解が得られず、失敗体験を積み重ね、人と違うことでいじめられて傷つき、ニートやひきこもり、うつ状態などで社会適応が難しい人が多くいます。
特別支援教育で発達障害のある子どもたちへの支援が始まって10年ほどたちますが、仮説を見る限りでは子どもたちの環境は劇的に改善されたわけではなさそうです。発達障害の子だけが配慮されるのはずるい、特別扱いではないかという声もよく聞かれます。発達障害を知るということと、それを理解し配慮するということは別なのかもしれません。専門家を育て、相談窓口を作り、サポート体制を整えることは二次障害を防ぐためにもとても大事なことですが、併せてグレーゾーンの子どもたちも含めたすべての子どもたちが安心して学べる環境を作らなければ問題は解決しないように思います。インクルーシブ教育もユニバーサルデザインも形だけでは難しいでしょう。
今の子どもたちではなんでもできてみんなに合わせられる子になることを求められ、「普通」でない変わった子や、できない子は発達障害です。「障害」というと何もできない人というふうに思われがちですが、そうではありません。むしろ人と違う部分が生かされる ことで、エジソンやアインシュタイン、坂本龍馬のような偉人になることもあります。彼らも集団行動ができずに学校を退学になるなど、人よりできないことがたくさんあり、それを個性として受け入れてもらえたことで大きな成果を残すことができたのです。障害のあるなしに関わらず互いの「違い」を受け入れ、尊重し合える教育環境が土台にあってほしいと思います。
■CO-BOの読者である学生の皆さまへのメッセージ
皆さんは、自分の個性が尊重される環境にいますか? 障害は個性という考え方もありますが、人よりできることだけが個性ではなく 、できないこともまた個性です。個性を尊重するというのは、できることできないこと全部ひっくるめて、その人自身をまるごと尊重 するということです。すべての子どもたちの個性が尊重される教育環境をどう作るか。それはこれから大人になる一人ひとりが考える べき重要なテーマです。まずは自分や周りの人の個性を受け入れ、尊重できているかを考えてみてください。
【企画・取材協力、執筆】(株)エデュテイメントプラネット 柳田善弘、寺本亜紀