2015/02/16
[第1回] 学力レベルと高大接続—学力クライシス下の高大接続 [3/3]
Ⅲ.結語
1.「従来型の学力」の重要性
以上の分析結果をふまえ、若干の提言を行っていこう。大学での学びの前提という基準に照らせば、学力クライシスは終わっていないといわざるをえない。結局のところ入試難易度—語弊を恐れずにいれば「従来型の学力」—による序列構造の下位層で学びの前提を欠いた学生を抱えるという既に知られた問題の構図がみえてきた。これが現在の高大接続における最大かつ喫緊の問題であると筆者は考える。
また以上の分析からは、「従来型の学力」と新しい学力(活用や意欲)とは相関関係があるということが指摘できる。入試難易度が高い大学で新しい学力も身につけている学生が多いとしており、また、A群(偏差値60以上)だけをとってみても、基礎能力に問題を抱えている大学ほど主体的な学びに課題を抱えやすいことがみえてきた。「従来型の学力」と主体的学びとの関係は—近年、よく耳にする努力と成功の関係に似ており—「従来型の学力」を備えていても主体的学びが必ずできるというわけではないが、「従来型の学力」を欠いた人に主体的学びができるわけはないということなのかもしれない。だから、主体的学びを考える上で、まずは(選抜度の高いごく一部の大学を除く)大半の大学における高大接続問題は「従来型の学力」を軸に考えることを主張したい。
最もこうした主張は、巷では最も課題を抱える大学が「ボーダーフリー大学」(学生確保のため入試が学力水準のゲートキーパーとして機能しなくなった大学)と呼ばれるなど、入試難易度の最も低い大学群の学力問題は以前から度々指摘されてきたから、目新しさはないかもしれない。また、「答申」においても、「従来型の学力」の習得に困難を抱えている生徒が多い高等学校で「思考力・判断力・表現力等の能力どころか、その基礎となる知識・技能自体の質と量が、大学教育に求められる水準に比して不十分な段階にある学生が多いことが深刻な問題となっている」(「答申」p.4)ことが指摘されてはいる。しかしながら、現在行われている高大接続の議論においては、長期的な展望に基づき大学の姿を刷新していく方向性のほうが強くなっている。
文部科学省は、「学習意欲」「思考力・判断力・表現力等」「知識・技能」を「学力の三要素」と据えたうえで、この三要素からなる「確かな学力」を涵養する方向性を打ち出している。このうち「知識・技能」は「従来型の学力」と位置づけられ、高大接続の議論においては「従来型の学力」にとどまらない入試を必要としている。そこから「知識・技能」中心のセンター試験を廃止し、「知識・技能の活用力」を中心とした新テストを実施しようという論理になるわけである。
たしかに学習に意味を見いだせないにもかかわらず、入学試験のためだけに「知識・技能」を闇雲に暗記する学習や学んだ「知識・技能」を活用することが念頭に置かれていない学習が起きているとすれば、これは全くおかしなことである。学ぶ意味を見いだしたうえで「知識・技能」を学び、学んだらそれを活用するサイクルが初等中等教育段階から醸成されるべきであることは間違いないことであろう。こうした学びの環境を各学校段階で作り出していくことに筆者としては全く異論がない。
しかしながら、本稿の分析結果をみるに現実の高大接続が抱えている問題の核心部分の一つは、こうした学びのあるべき姿や「国家百年の計」的な教育政策構想とは、ひとまず別の次元にあるということができるのではないか。いま起きていることは、繰り返し指摘してきたように、大学での学びの前提となる学力水準をクリアしない学生が大量に高等教育に来ているということである。
高大接続の議論は、ともすれば教育刷新のために現場に新しい対応課題を抱え込ませるものとなっているように筆者には感じられる。だが、ひとまず、もっとシンプルに捉えたほうが実効的な改革ができるのではないかと筆者は考えている。それは、結局のところ、知識・技能の点で「従来型の学力」を欠いたり、そもそも履修していなかったりという大学での学びの前提を欠くような入学者を生み出さない仕組みをつくることに専念するというものである。
実際の大学間競争は、「従来型の学力」を軸としたシンプルな考え方で動いており、多くの大学では入試難易度を高めて、少しでも「いい学生」(=「従来型の学力」)を獲得しようとしのぎを削っている。だからというわけではないが、すくなくとも現時点では、大学での学びの前提条件をクリアするというところに焦点をおいた改革がまず必要なのではなかろうか。
2.大学ならではの主体的学びとは
「従来型の学力」を軸に改革を考えているからといって、筆者は主体的な学びを軽視してはいない。筆者は現在の大学改革における主体的学びの議論に対して、その問題意識を共有しつつも、アンビバレンツな思いを持っている。
現在、大学における主体的学びの危機が叫ばれている。「答申」をみても「大学教育の質的転換の断行」(「答申」p.20)という強い表現が使われ、「大学教育を、従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、学生が主体性を持って多様な人々と協力して問題を発見し解を見いだしていくアクティブ・ラーニングに転換」(「答申」p.20))させる必要性が説かれている。アクティブ・ラーニングは、近年の大学教育改革の目玉であり、「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法」(文部科学省大学改革の用語集)のことである。研究が盛んになりつつあり、またFDなどでの研修の機会も増えている。現在の大学改革においては、これが主体的学びの中軸に位置づけられているとみてよい。
こうした動きに対して筆者は、授業改善のためにこうした手法を入れていくことの有効性を強く認識しているものの、それとは別の次元で強烈な違和感を覚えている。
筆者は、大学における主体的な学びとは、大学ならではの主体的な学びでなければならないと考えている。大学が学問の府—科学的な知的生産活動の府—であるとすれば、論理、批判、実証などを軸とした科学的思考に基づいた主体的な学びが、大学ならではの学びということができる。そうした科学的思考に基づき「自ら問題を発見し解を見いだしていく機会」が卒業論文であり、それを成立させる場がいわゆるゼミといわれる知的生産のコミュニティであった。したがって、筆者は卒論やゼミこそが主体的な学びの中心にあるべきであると考えており、また、実際これまでもそうであったように思われる。すなわち「自ら問題を発見し解を見いだしていく」ことは、個々の授業場面で分散的になされるというように考えられていたわけではなく、様々な授業を通じての得た分散的な学習経験を一つの研究に統合していくような経験であったといえよう。
一方、「答申」をはじめとする近年の大学における主体的な学びの議論においては、卒論やゼミといった言葉は、ほとんど出てこない。
語弊を恐れずにいえば、近年の主体的な学びの議論は、①授業場面を対象とした、②教育方法の問題に矮小化されてしまっているきらいがあるように思われる。大学における主体的な学びとは、本来、同じメンバーシップを有した者同士が学科やコース、ゼミなどのコミュニティに参加することで、学問に特有のものの考え方や態度を学ぶ—薫陶を受ける!—なかで、「自ら問題を発見し解を見いだしていく」ということになると筆者は考えている。ここでは、主体的な学びの範囲は授業場面に限定されているわけではなく、授業外の時間を含めてということになるし、単純に授業の方法上の問題によって能動的か受動的かが決まるわけでないということになる。講義や講演から知的生産活動のアイデアをもらった経験は、多くの学生がしてきたことだろう。したがって、「講義形式(受動的)vsアクティブ・ラーニング(能動的)」という二項対立的な認識があることや、授業改善のみに主体的な学びの焦点があてられていることには—さらには、その背景にある履修した授業の寄せ集めによってその人の学びが決まるという認識枠組みに対しても—問題があるといわざるをえない。
分析結果からは入試難易度の高いA群の大学でも科学的な思考力に弱点を持つことがみえてきた。科学的な思考の方法をきちんと身につけさせることが、学問の府である大学の使命であるとすれば、いわゆる文系の学部・学科ではその部分が弱いということになる。このままだとアクティブ・ラーニング的手法を用いても論理性や根拠に基づいた思考に基づかずに議論が行われるなどのことが容易に予想されるところである。ここでは科学的な思考力を育成するようなしくみが必要になっており、そうした機会の中心に卒論やゼミが位置していると筆者はみている。
ただし、多くの大学で主体的な学びが成立しづらいことは、本稿の分析結果をみても明らかである。このとき、学生を学びへと巻き込んでいくためにアクティブ・ラーニング的手法が重要になってくることは確かである。しかしながら、アクティブ・ラーニングをしていないから学生の主体的な学びが成立していないというような授業方法決定論的な考え方があるとするならば、やはり本質を見誤っているといわざるをえないだろう。
冒頭で述べたように高大接続とは、大学教育ひいては高校やそれ以前の学校段階の教育を再定義する大国家プロジェクトである。そうしたプロジェクトに意義を感じつつも、私立大学の教員であり教育社会学者である筆者は、なんともいえない空恐ろしさも同時に感じている。筆者が主張したいのは、目新しさのある転換の影で見えにくくなりつつある、学問そして科学の府としての地道な活性化の取り組みの重要性である。