2015/03/23

[第2回] 高校教育の現状と高大接続改革の在り方 [1/3]

中村 高康●なかむら たかやす

東京大学大学院教育学研究科 教授
東京大学大学院教育学研究科博士課程中退 博士(教育学)
群馬大学教育学部助教授、大阪大学大学院人間科学研究科准教授を経て現職。専門は教育社会学。研究テーマは、戦後教育と社会変動、大学入試制度、高校生の進路選択、教育と社会階層など。主著として『進路選択の過程と構造』(ミネルヴァ書房、2010年、編著)、『大衆化とメリトクラシー』(東京大学出版会、2011年)、『学歴・競争・人生』(日本図書センター、2012年、共著)など。

Ⅰ.「知識偏重」という呪縛

 昨年12月に公表された中央教育審議会答申1)は、新しい時代に対応するための、高校・大学改革と一体となった高大接続改革を提言したことで話題となった。大胆な大学入試制度改革も含まれるというので、大学入試や高校生の進路選択に関連した研究をこれまで行ってきた筆者もさっそく答申原文に目を通してみたのだが、なんとも表現しえない脱力感に襲われた。
 そのような気分になる最大の理由は、答申全体が学力の三要素を強調し、一見バランスを取っているように見えながら、その一方で盛んに「従来型の学力」「知識の暗記・再生」を否定するトーンでまとめられていることにある。答申の現状認識は「18歳頃における一度限りの一斉受験という画一化された条件において、知識の再生を一点刻みで問う問題を用いた試験の点数による客観性の確保を過度に重視し、そうした点数のみに依拠した選抜を行うことが「公平」であるという、従来型の「公平性」の観念が社会に根付いている」(5頁)という書き方に典型的である。
 しかし、これはあまりにも古い状況認識である。それは、これとよく似たフレーズが、1971年の日本に関するOECD教育調査団報告書に記載されていたことを挙げれば十分だろう。「入学は、十八歳のときに行われるたった一度の試験(浪人することで繰返される場合も多いが)によって、決定されている」(OECD教育調査団,1971)と。
 では、今から44年前の報告書に指摘されたような状況が、現代の規範として全体を支配していると、本当にいえるのだろうか。残念ながら答えはNoである。拙著『大衆化とメリトクラシー』(2011,東京大学出版会)でも強調したように、大学入学者選抜をめぐる規範は、すでにOECDの報告書の時代から徐々にダブルスタンダード化し始めており、私たちはすでに50年近い歳月をかけて、「一発勝負の入学試験」以外の選抜方法を受け入れてきたからである。その帰結が、「日本の私立大学全入学者の過半数は推薦・AO入試入学者」という現実なのである。
 問題は知識の詰め込み・再生にあるのではない。むしろ、知識の詰め込み・再生すらままならない多くの高校生たちを大学教育につなげ、社会全体としての効用の拡大につなげていく方策を練ることにある。この点については、すでに大多和氏の論稿でも大学教育の側から類似の指摘がなされているので、ここでは高校教育の側からこの問題を考えたいと思う。というのも、まさにこうした問題と日々格闘しているのが、高校教育現場でもあるからである。

Ⅱ. 高校教育の基本的役割

 高等教育大衆化の時代にあって、高校教育が普遍化していくことにともなう機能の変貌と困難については、すでに50年以上前にアメリカの社会学者、M.トロウが明快に指摘している(Trow, 1961)。高校教育は高校進学者が少ない時代にはエリートのための進学準備教育制度として機能するが、高校進学率が上昇してくると大衆のための完成教育制度としての側面が強く出るようになり、さらに高等教育がマス化してくると大衆のための進学準備教育制度への転換も求められるようになるというのである。そして、進学準備と完成教育という、時として相矛盾することもある二つの基本的役割を担うところに、大学進学が一般化した時代における高校教育の難しさがある、というのである。
 アメリカは、高校教育の普遍化についても、また高等教育の大衆化についても世界一の先進国であったとはいえ、このトロウの50年前の指摘が現代日本においても相当程度当てはまっているのは、非常に興味深い。なぜなら、これは現代日本の高校教育の抱える問題が、グローバリゼーションや情報化などの万国共通の同時代的問題から発生しているというよりは(もちろんそうした面もないとはいえないが)、教育が著しく普及した社会に時代を問わず共通する構造問題であることを示唆しているからである。今回の『高大接続に関する調査』にもそのことを端的に示すデータがある。図1は高校教育の役割として「進学・就職準備」か「完成市民教育」かを二択で選んでもらう形式の質問の回答結果であるが、見事に半々に分かれている。このデータを見る限り、二つの基本的役割は現代日本の高校教育において厳然と存在しているということができるだろう。
図1 高校教育の役割に対する考え(高校)
 昨今の高大接続論議も、大学との接続ばかりを意識し過ぎると思わぬ事態を招く可能性がある。それは上述の「完成教育」としての高校教育、具体的には、基礎的学習習慣・態度を育成しなければならないという側面である。図2は、調査対象となった高校で「特に力を入れて育成に取り組んでいる学力・能力」を校長に尋ねたものである。様々な応用的な能力の選択肢をさしおいて圧倒的に多いのは、「基本的な学習習慣」(69.5%)である。いずれも「活用」や「探究」と無関係ではないが、直接的にはむしろ基礎的な学習そのものへの取り組みをうながすことに高校教育現場が最優先で対応しようとしていることを示している。また、「社会の規範やルールにしたがって行動する力」も高いが、これもどちらかといえば基礎教育的な内容がイメージされる。
図2 特に力を入れて育成に取り組んでいる学力・能力(全体)(高校)
 こうした高校教育の全体像を俯瞰すれば、「知識偏重」批判など思いつかないはずである。それほど高校教育は普遍化・準義務教育化しており、基礎教育的機能を重く担っている。そこには基礎的知識・技能の「習得」も当然大きく関わっている。そして、そのことを高校の校長先生たちもかなりの程度自覚していることを示すのがこれらのデータなのである。
 高校教育の二元的機能に悩むのは日本だけではなく、教育拡大を経験したすべての社会であてはまる。日本に特殊なことは何もない。ここを押さえれば、接続の問題が知識偏重の入試制度の問題ではないことが理解できるだろう。そもそも構造的な問題であり、選抜方法を小手先でいじるのはポイントを外していると見た方が現実的ではないか。
1)中央教育審議会 2014「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」