2014/04/30
Shift│第2回 危機に瀕した女子校が、教育界から注目を集める革命者に 【前編】広尾学園の驚くべき大転換 [2/3]
共学化、進学校化までの道のり
今からわずか7年前の2007年頃、広尾学園(当時は順心女子学園)は廃校寸前の状態だった。同校の始まりは大正7年に板垣退助(伯爵内務大臣)とその婦人、絹子によって設立された順心女学校。開校以来「自律と共生」を教育方針とした中高一貫校であったが、21世紀に入ってからは、少子化に加え、進学率重視の傾向のあおりを受け、1500人いた生徒が500人にまで減っていた。
広尾学園教務開発部長の金子暁(かねこさとる)は、その頃を知る一人で、2007年の共学化、進学校化に合わせた学校改革と広報戦略を担当した。
金子氏は当時をこう振り返る。
「教員たちも皆、危機感はもっていましたが、どうしたら状況を変えられるのかわからずにいました」
学校としてそれまでもまったく手を打っていなかったわけではない。「生徒の人数が大幅に減ってから7~8年の間にかけた労力と時間は今以上だったかもしれません」
金子氏は当時をこう振り返る。
「教員たちも皆、危機感はもっていましたが、どうしたら状況を変えられるのかわからずにいました」
学校としてそれまでもまったく手を打っていなかったわけではない。「生徒の人数が大幅に減ってから7~8年の間にかけた労力と時間は今以上だったかもしれません」
広尾学園教務開発部長の金子暁氏
進学率向上が求められていることはわかっていたので、あらたに予備校の先生を招いた講義など試みてはみるものの、じわじわと押し寄せる少子化と進学重視の波を押し返すにはいたらない。そもそも学校を根本から見直して男女共学化することや、進学校化するといった「これまでの枠を超えた考え」は議論にあがることはあっても、実感をもって話されることはなかったと金子氏は言う。それまでの経営陣は学校畑の出身で、彼らがトップにいる間は、教員たちの多くも「まだやれることはある」「守らなければならないことがある」と信じていたのだ。
すべてが変わったのは2005年、学習塾経営者の経験もある大橋清貫氏が学園長に就任してからだ。大橋氏はそもそもの話として「これからの学校は進学校でないと生き残れない」という現実を突きつけ、「男女共学にする」ことを強く提案した。それまでの枠組みを変えることで苦境の学校を再び成長に転換させることもできるという新しい学園長の方針に対して、多くの教員が「もはや変わらざるをえない」と同意。同様に、在校生の多くの保護者も、学校を存続する上で方向転換は仕方がないと納得したのだ。
こうして2007年、「順心女子学園中学校・高等学校」は「広尾学園中学校・高等学校」に生まれ変わり男女共学化と進学校化を果たし、さらには中学インターナショナルコースも併設するという大転換をわずか1年でやってのけた。学校にとっては「失敗すれば後はない」という大きな賭けである。この大転換は、当時、わずか40名にまで減っていたスタッフによって行なわれた。ここで失敗したら学園の歴史が終わるという正念場に立たされていただけに教員の誰もが真剣だった。やるべきことは、女子専用だったトイレを工夫して男子でも使えるようにするといったことも含め、極めて多岐にわたっていたが、なんとか1年で男女共学校の形をつくった。女子校としては伝統校であっても、男女共学としてはまったく実績のない学校を進学校として認めてもらい、なおかつ志望してもらうことは大変難しいミッションだった。
普通にやっていたのでは認めてもらえない。そこで考えたのが、教員研修で、教員1人ひとりが難関大学の入試問題を実際に解くという入試研修だった。この地道な活動が口コミで広がり説明会に集まる父兄も少しずつ増えていった。女子校時代、説明会に来る保護者は数組から十数組だったが、評判が評判を呼び、その数をはるかに上回っていった。他の誰もやりたがらないこと、他の誰もやらないことに取り組んで信頼を勝ち取ったのだ。
最初は「評判を聞かないから止めた方がいい」と答えていた進学塾の先生らも、保護者からの問い合わせが増えるにつれ、広尾学園について調べざるを得なくなり、女子校からの大転換を知ることになる。男女共学の進学校が少ない東京メトロ日比谷線沿線にあるというのも追い風になった。そんな好循環もあり、初年度の中等部には160人が入学、それまでの40人と比べると大きな飛躍だった。