エピソード 研究会メンバーのICEとの出会い 東京都立小山台高等学校 坂田 匡史
1.「教え込み(教授主体)から、主体的な学び(探究主体)に学びを変える」必要性が高まったと感じる、ご自身の経験。
前職の企業で働いていたときに「売り上げをどうやって上げるか」「どのように部下・アルバイトを育成するか」などの問いを、常に考えて仕事をする必要性を実感した。営業の場面でも、人財育成の場面でも、いかなる時であっても、社会生活において問いとの対話は切り離されない。それは学校教育であっても同様であり、教科の特性を生かして思考を促す教育活動の充実を図ることを目指した。
ある時、卒業した生徒にこう言われた。「坂田先生の授業を受けて、歴史を学びたくて大学では史学科に進みました。でも、思っていたのと違う。高校世界史の授業は面白いのに大学はつまらない」と。こういう言葉のいくつかがぼんやりと記憶に残り、自己の授業に課題を感じることはあってもそれは何か、なかなか言語化できずにいた。しかし、何年か経てこういうことかと気づいた。
「授業を通じて、生徒個々人に歴史像を描くスベ(資質・能力)を身につけさせてない」 あくまでこの卒業生にとって私の描いたストーリー(歴史像)が興味深いのであって、生徒にナラティブに歴史像を描かせていない。そこで「教師のストーリー」から「生徒のナラティブ」に転換したいと考えた。何より私自身が高校生のときに世界史の授業が終わって、図書館に駆け込んで伝記を借りて読んだように、歴史を学んで自ら学習してみたくなる授業を追求していきたい。
2.先生方にとってフレームワーク(ICEモデル)が有効と感じた理由。
1つ目は、「見えない学力」を効果的に「見える化」する点。(日本語の伝わり方や曖昧性の含意に常に注意する必要があるものの)言語化の道具として効果的。ICEモデルには今生徒自身の学びがどこにあるのかを自己認識させ、次なる学習を引き出す効果性に秀でていると感じる。2つ目は、単に「できた」「できない」ではなく、省察を促すという点。ナラティブな歴史像を生徒一人ひとりに描かせるためには、点数や偏差値などの能力主義ではなく、生徒自身の課題感に向き合っていくことを支えることが重要である。それは「わからないこと」を歓迎することであり、教師と生徒が一緒になって考究・探求することで、常なる問いにチャレンジさせていきたい。
3.授業デザインに必要な「問いかけ」の具体的な事例(単元やその時の問いの事例)。それを作るために工夫していること。
何より、その問いに取り組ませるためにどのような知識や概念理解を持ちえているか、 「生徒理解」が大前提。学習指導案などでよく使う「生徒の実態に即して」とはよく言ったものの、この言葉の持つ抽象性ははかり知れない。生徒個々人の多様性や理解の異なりを大切にしながら「もっと学んでみよう」「役に立つ」と思わせる問いとなっているか。教師が組み立てたきれいなストーリーより、一見均質性に欠けるようないびつさを持ちうる問い自体に、ナラティブさを生むヒントが隠されている。
「つなげること」「くらべること」(※『世界史の教室から』小田中直樹、山川出版社、2007)を充実させることは、世界史の授業において歴史的思考力を育むことにつながる。まさにconnectionsの領域を示しており、「なぜ(why)」の問いが重要。資料を活用して、条件を変えつつ、同じ問いのなぜを繰り返すことで「見方・考え方」が働かされる。
「なぜ、ドイツで宗教改革が始まったか」
「ウィクリフやフスなどの先駆的な活動が宗派化につながらなかったにもかかわらず、なぜ、ドイツで宗教改革が始まったか」
「ウィクリフやフスなどの先駆的な活動が宗派化につながらなかったにもかかわらず、なぜ、ドイツで宗教改革が始まったか」
「書きなさい」と「論じなさい」では求めるものが異なるように、問いと関連付けて指示の 動詞も重要である。また、問いを生み出すためには、はるかに多い知識も求められるのであろう。「つなげる」題材も「くらべる」題材もなければ、問いを生み出す手がかりをつかめないので、とにかく専門書を読むこと。歴史家が素晴らしい問いを作っているので、歴史学の成果を継承しつつ、歴史教育へと生かしていくことが歴史教師として求められていると感じている。
4.学校や教科を超えて語る研究会を通して気づいたこと。研究会への期待と課題。
私自身の取り組みをアウトプットする機会などなかなかなく、一般化して伝えるとなると語彙の壁に阻まれつつも、思考を外化することで考えが整理され、他の先生方の視点に刺激を受けた。教育をめぐる環境の変化は、我々自身がかつて経験したことのない、いわば成功体験を有していない教育活動への漠然とした不安感へとつながっている。どこかでうまくいっている・うまくやっている・失敗したかもしれない事例があると研鑽の題材になるのだと思う。どこかで「学んでみたい」「自分もやってみよう」と思っている諸先生方への勇気づけになるとありがたい。