2016/02/16
子どもの発達を促すe-learningの活用方法(第1回)
研究員 中島 功滋
内容
この度、アセスメント研究開発室では専門家による講演会「子どもの発達を促すe-learningの活用方法」を開催しました。eラーニングの基礎となる教育理論・eラーニングシステムにおける実践(レポートのピア・アセスメント、学習履歴の活用)・ベイジアンネットワークのeラーニングへの適用等について、この分野の最先端の研究者の一人である植野真臣先生(電気通信大学大学院情報システム学研究科教授)に講演していただきました。講演の詳細について講演者の植野先生から寄稿いただきましたので、3回に分けて紹介いたします。
※植野先生には一昨年、「eテスティングとeポートフォリオ:コンテンツからビッグデータ時代へ」というタイトルで講演していただきました。合わせてご覧ください。
開催日
2015年12月22日
会場
ベネッセコーポレーション東京本部(多摩)
発表者
植野 真臣(電気通信大学大学院 情報システム学研究科 教授)
子どもの発達を促すe-learningの活用方法
教育とは何か?
「教育」という言葉は、科学や論理では語りつくせないことを我々は経験から知っています。そこからもわかるように、教育を完全に定義・説明することは難しいでしょう。学問的には、教育は「発達(Development)を促すすべての営み」と定義されてきました。この定義は、実は「発達」をどのように捉えるかでどのようにでも解釈できるのです。教育の理論は様々あり、それらは「発達」のとらえ方の違いがそれぞれの理論を規定していると私は考えています。
教授主義 -教師中心主義—
古典的な教育理論は、スキナーの行動主義やそれを批判して出現した認知情報処理と呼ばれるアプローチを基礎にした「教授主義」といわれる考え方です。この考え方は、教える側と教えられる側が明確に分かれていて、教える側の知識を教えられる側に注入するという考え方です。
教科書の中で書かれた知識を普遍的知識として、その考え方を理解できればよいと考えるのが学校教育における教授主義の特徴です。また、教師が学習環境をすべてコントロールしていて、教師が学習の中心であることも教授主義の特徴です。この理論における教師の役割は、自分の理解した知識を一生懸命学習者に教えることなので、現在の日本の学校教育にはもっとも適合しそうに思います。この理論の問題点は、学校教育では教科書をうわべだけ教えてしまいがちになり、学びの質の良し悪しは、教師の能力に依存してしまうということです。本当に学習しなければならない対象は、教科書そのものではなく、教科書を通してその向こう側に本物の対象があるはずです。しかし、この理論では、知識は教師の中にあり、学習者は教師から知識を教わるだけなので、よい学習が成立するかどうかは、教師が本物の対象をよく理解し、豊かな知識やすばらしい考え方を教えられるかどうかに依存してしまいます。
この教育理論では、「発達」を「知識の量」と考えていると解釈できます。
この教育理論では、「発達」を「知識の量」と考えていると解釈できます。
構成主義 -学習者中心主義—
教授主義は、教師中心であり、学習者が本当の学習対象を学べるかどうかは教師次第だということに批判的なピアジェは構成主義を提唱しています。構成主義では学習者自身が中心となって学習対象を学び、学習者自身が知識を自分で構築していきます。ピアジェは、学習者が自分の持っている知識で学習対象をなんとか理解しようとする「同化(assimilation)」と、今までの知識では説明できない現象をうまく説明できるように、自分の知識を質的に変える「調整(accommodation)」との繰り返しにより、学習がなされると考えました。
理科実験において、学習者が事前に結果を予測することが「同化」に対応し、実際の実験結果が予想と違った場合にその結果を説明できるようにこれまでの考えを修正していくことが「調整」に対応します。この理論は図2のように示されます。学習対象に学習者自身が能動的に働きかけ、自身の考えや概念を更新していくことを学習と考えていることがこの理論の特徴なのです。より日常的な例を挙げると、「目からうろこ」という体験こそが人にとっての本質的な学習であるといわれれば読者も腑に落ちるかもしれません。
理科実験において、学習者が事前に結果を予測することが「同化」に対応し、実際の実験結果が予想と違った場合にその結果を説明できるようにこれまでの考えを修正していくことが「調整」に対応します。この理論は図2のように示されます。学習対象に学習者自身が能動的に働きかけ、自身の考えや概念を更新していくことを学習と考えていることがこの理論の特徴なのです。より日常的な例を挙げると、「目からうろこ」という体験こそが人にとっての本質的な学習であるといわれれば読者も腑に落ちるかもしれません。
この理論では「発達」はものごとの理解の仕方の質的変化であると考えています。ピアジェは、人の考え方の発達は生物的発達、つまり年齢とともに質的に変化していくと考えていたのです。彼の考え方では、人は自動的に発達が生じるということになります。学習者が能動的に学習対象を理解しようとすることは望ましいことですし、学習の本質であることは間違いありません。しかし、人はそのようなことを自然にできるようになるのでしょうか。仮に、学習者が独立した研究者であれば、自身が仮説を立て実験をし、自分の仮説を更新して新しい知識を生み出すことが可能だと思いますが、多くの人にとって、自力でものごとの見方を質的に変化させることはそう簡単なことではないはずです。
図2のような学習者中心主義を学校現場に持ちこむと、学習者は一人で対象に挑むことになり、教師の意義や役割は組み込まれていません。確かに学習者に仮説を立てさせ、実験により新しい概念を学ばせることは有効でしょう。しかし、どんなことでも学習者に教えることなく、学習者自身に発見させることは可能なのでしょうか?
図2のような学習者中心主義を学校現場に持ちこむと、学習者は一人で対象に挑むことになり、教師の意義や役割は組み込まれていません。確かに学習者に仮説を立てさせ、実験により新しい概念を学ばせることは有効でしょう。しかし、どんなことでも学習者に教えることなく、学習者自身に発見させることは可能なのでしょうか?
最初に紹介した教授主義は学習者に教えこみすぎる傾向にあり、逆に構成主義は教えなさすぎという傾向にあるようです。
社会的構成主義 -他者からの学び-
ピアジェの学習対象と学習者の直接的な相互作用による学びの重要性を認めながらも、発達のとらえ方がピアジェとは全く違う考え方をしていたのがヴィゴツキーの社会構成主義です。この理論では,学習者は学習対象から独りで学べるのではなく,他者や出版物など社会的な媒介を通じて学習対象を学び、その延長で発達が生じると考えています。
私はヴィゴツキーの理論を若い時に学び、後に私が開発する eラーニング・システムやeポートフォリオ・システムの理論的根拠にしてきました。
私はヴィゴツキーの理論を若い時に学び、後に私が開発する eラーニング・システムやeポートフォリオ・システムの理論的根拠にしてきました。
ヴィゴツキーは、図3のように学習者が一人ではできないような学習対象の理解や問題解決、創造的課題に取り組むときに、仲介者(教師とは限らない、親や先輩、友人や本、コンピュータなど)が支援してくれることにより発達が生じると考えました。初心者は、熟達者に問題解決や対象理解を支援してもらうことにより、最初は表層的ではあるが、徐々に、単なる知識のみでなく、理解の仕方、注意・焦点化、内省、態度、動機、情熱などの対象に関する高次の心的スキルを獲得できるとヴィゴツキーは考えたのです。重要なことは、教師自身も学習対象に対して「本当はどうなのか」というような気持ちをもって理解に努める必要があるということです。学習者は教師の理解の仕方そのものを学ぶのです。このように、教師が学習者を支援する場合には、教師は学習対象の面白さや情熱、見方や価値観、倫理、その背景、社会文化を伴って学習者を支援するので、教師の見方そのものが学習者に影響することになります。もし、教師が対象をよく理解せず、(図1のように学習対象が消えた状態で)教科書の知識だけを表面的に教えるだけであれば、学習者にとってその対象は本当につまらないものなるでしょう。優れた科学者に習うと良いのは、科学的知識だけでなく、科学への情熱、科学的方法や考え方、倫理観、公正性、論理的思考、説明能力など様々なことが学べるからなのです。だからこそ、教師は学習対象に対して情熱をもって理解に努めなければならないのでしょう。
ヴィゴツキーの考え方によると、教育は、単なる他者からの知識の伝達ではなく、他者が属する文化そのものの伝承を意味し、知識や学習方略の獲得と学習動機や情熱などの情意面の獲得とが切り離せない過程であるといえるのです。また、ヴィゴツキーは、学習者が一人で到達できる水準と、熟達者が支援して到達できる水準との間の領域を「発達の最近接領域(ZPD:Zone of Proximal Development) 」と呼び、教育がこの領域に働きかけることにより、学習者の発達を効果的に促進できると主張しています。その後、このような熟達者からの支援をブルーナーは「足場かけ(Scaffolding)」と呼び、教師は最小限のヒントなどの援助を与えることにより学習者の本当の能力が伸びることを示したのです。
最近では、多様な他者からの学びがより望ましい発達を導くことがわかってきました。よい仲間や先輩がいる環境で学ぶことの重要性が証明されたわけです。学習の本質は、他者から学習対象への情熱、学び方、問題解決、創造的手法、などを学ぶことに他ならないのです。そして、このような学習環境を実現するためには、eラーニングやeポートフォリオという技術が本当に役に立つのです。
図3は、図1の教授主義と図2の構成主義を組み合わせただけに見えますが、教師自身が学習者の学び方を支援する方向と学習者が能動的に他者の学び方を学ぶ他者からの学びの双方が学習者の学びを促進させるのです。
ヴィゴツキーの考え方によると、教育は、単なる他者からの知識の伝達ではなく、他者が属する文化そのものの伝承を意味し、知識や学習方略の獲得と学習動機や情熱などの情意面の獲得とが切り離せない過程であるといえるのです。また、ヴィゴツキーは、学習者が一人で到達できる水準と、熟達者が支援して到達できる水準との間の領域を「発達の最近接領域(ZPD:Zone of Proximal Development) 」と呼び、教育がこの領域に働きかけることにより、学習者の発達を効果的に促進できると主張しています。その後、このような熟達者からの支援をブルーナーは「足場かけ(Scaffolding)」と呼び、教師は最小限のヒントなどの援助を与えることにより学習者の本当の能力が伸びることを示したのです。
最近では、多様な他者からの学びがより望ましい発達を導くことがわかってきました。よい仲間や先輩がいる環境で学ぶことの重要性が証明されたわけです。学習の本質は、他者から学習対象への情熱、学び方、問題解決、創造的手法、などを学ぶことに他ならないのです。そして、このような学習環境を実現するためには、eラーニングやeポートフォリオという技術が本当に役に立つのです。
図3は、図1の教授主義と図2の構成主義を組み合わせただけに見えますが、教師自身が学習者の学び方を支援する方向と学習者が能動的に他者の学び方を学ぶ他者からの学びの双方が学習者の学びを促進させるのです。
ヴィゴツキーの学派は、最近では、「発達」を「社会文化に貢献できる潜在的能力」と解釈しています。個人が教育されれば社会がよくなり、社会が良くなれば個人が良くなり、個人がよくなれば社会が良くなるというスパイラル構造を実現するために教育があるという考え方です。この理論を私は大学生の時に知りましたが、それまで「発達」が個人の知識獲得のためにのみあると信じていたので、教育が社会・文化の発達と個人の発達を同時に実現するという考え方(それゆえに社会的構成主義)に当時は深く感銘を受けたものです。これこそ、「目からうろこ」だったのです。
参考文献
- 植野真臣、他者からの学びの支援、人工知能学会誌、VOL 30. No.4, 469-472, 2015