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城主・加藤嘉明が四半世紀をかけて築いた『松山城』とは?

江戸時代随一の堅牢城『松山城』の歴史は?

「松山や 秋より高き 天主閣」

と、正岡子規(まさおかしき)が詠んだように、愛媛県松山市の天空には『松山城』がそびえ立っています。

正岡子規をはじめ、この街から多くの俳人が輩出されたのは、この天守の圧倒的なスケールが松山に住む青年たちの想像力をたくましくさせたからかもしれません。

―『松山城』。

加藤清正(かとうきよまさ)や藤堂高虎(とうどうたかとら)らとともに築城の名手として知られる伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)の初代藩主・加藤嘉明(かとうよしあき)が生み出した、天守現存のお城です。

加藤嘉明は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が柴田勝家(しばたかついえ)を破った『賤ヶ岳の戦い』(しずがたけのたたかい)で功を上げた“賤ヶ岳の七本槍”のうちのひとりで、豊臣恩顧の大名です。『関ヶ原の戦い』以降は徳川家に仕えており、1602年に『勝山城』(後の『松山城』)の築城を開始します。

江戸時代に入って築城されたお城には、“軍事的機能”よりも“政務機関としての象徴”であることが重視される傾向があります。

しかし、この『松山城』は江戸時代に入ってから着工したにもかかわらず、軍事的にも非常に優れている、まさに堅城でした。

「天守、小天守、隅櫓(すみやぐら)」を渡り櫓で結ぶ連立式天守というつくりで、これは天守防衛の究極形とも称されます。

乾櫓は弾丸が貫通しないように、壁の中に小石や瓦を詰めた太鼓壁構造でつくられました。

山麓から本丸へ斜面をはうように築かれた総延長230m以上もの“登り石垣”と、天守がそびえるのは標高132mという立地のため、これを攻めるとなると幕府軍であっても苦労したことでしょう。

それでは、なぜこのような堅牢な城を築くことを許可されたのでしょう。

加藤嘉明が伊予に入った当時は、豊臣秀吉より前にこの地を支配していた河野氏の残党も多く、いつ戦闘になってもおかしくないような状態だったため、こういった軍事的な要塞をつくることが許されたのです。

ただ、加藤嘉明が異動になった後に藩主となった(途中、蒲生(がもう)氏をはさむ)松平定行(まつだいらさだゆき)によって天守は5重から3重に改築されました。これは、5重という堅固な天守は、この時代に必要はない、と判断されたからなのでしょう。

城郭のつくりから当時の政治情勢を知ることができるのも、お城観光のおもしろいところかもしれません。

築城まで多くの時間を費やした『松山城』から学ぶ【教え】

『松山城』は他の多くのお城と同様に、多くの困難に直面しています。

1784年には落雷により、天守を含む多くの建造物を消失していますし、1870年と1872年に起こった火災で二之丸、三之丸を、1933年には放火により本壇の建築群のほとんどを失っているのです。

それでも時間をかけて復元し、平成の世でも、松山の街並みを高い場所から見下ろしています。

ところで、なぜ築城主である加藤嘉明は、城の完成を見ることができなかったのでしょう。

それは、『松山城』が着工から完成まで実に25年もかかり、また、1627年に加藤嘉明は会津藩(現在の福島県)に移封(いほう・他の領地へ移ること)となっているためです。その壮麗なたたずまいを遠く会津の地で想像し、酒のさかなにでもしたのかもしれません。

天下普請(てんかぶしん・江戸幕府から諸大名に命令して、土木作業を行わせること)でもなく、20万石という決して大きくない石高でしたが、四半世紀かけて根気よくつくってきたからこそ、今も多くの人から仰ぎ見られるお城となっているのでしょう。

お城づくりも人生も一緒です。

根気よく石垣を積むように人生を歩んでいけば、いつか立派な人間になれるでしょう。そんなことを『松山城』になぞらえて、お子さまに教えてあげてください。

正岡子規いわく、“秋より高い”『松山城』へ行ってみましょう

現存する天守は1854年に再建落成されたもので、江戸末期から脈々と受け継がれた歴史をその外壁や瓦、内部にまで確認することができます。一部の櫓や門は、昭和に入ってから次々と復元されたものですが、これらは全国的にも例を見ない総木造となっており、質感から空気まで、はるか昔のぬくもりを感じさせてくれます。標高132mに立つ天守に登り、お殿様気分で松山の町を見下ろしてみるのも粋なものかもしれません。

アクセスマップ

名 称:松山城
時 間:9時00分~17時00分 ※入城は閉城の30分前まで(8月 9時00分~17時30分、12月~1月 9時00分~16時30分、ロープウェイは開城30分前から閉城30分後まで稼働)
休 日:無休(天守は12月第3水曜日は大掃除のため休み)
料 金:松山城天守観覧券は大人510円、小人150円(ロープウェイ代、リフト代は別途)
住 所:愛媛県松山市丸之内
電 話:089-921-4873(松山城総合事務所)
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。

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