2023/03/06
ラップで心の病について発信し、社会の誤解をなくす/佐々木 慎
様々な場所で色とりどりに活躍している20代、30代。
ベネッセ教育総合研究所では、活躍する20代、30代のメディア発信に取り組んでいる、「株式会社ドットライフ」および「株式会社ユニーク」の協力のもと、より多様で幸せに活躍する方にインタビューを行いました。
彼らのインタビューを通して、これからの社会で活躍し、「Well-being」に生きるためのヒントを探っていきます。
今回は、精神科の作業療法士として働きながらラッパーとして音楽活動をする佐々木慎さんにお話を伺いました。
ベネッセ教育総合研究所では、活躍する20代、30代のメディア発信に取り組んでいる、「株式会社ドットライフ」および「株式会社ユニーク」の協力のもと、より多様で幸せに活躍する方にインタビューを行いました。
彼らのインタビューを通して、これからの社会で活躍し、「Well-being」に生きるためのヒントを探っていきます。
今回は、精神科の作業療法士として働きながらラッパーとして音楽活動をする佐々木慎さんにお話を伺いました。
佐々木 慎
豊郷病院 精神科 作業療法士
1988年生まれ。滋賀県出身。高校卒業後、清掃会社で働きながら、プロキックボクサーを目指して練習に励むも、けがをきっかけに断念。作業療法士を目指す。最愛の母の死をきっかけに、「慎 the spilit」の名でラッパーとしての活動を開始。現在は、滋賀県豊郷町にある豊郷病院 精神科の作業療法士として働くかたわら、ラッパーとしても精力的に活動している。
1988年生まれ。滋賀県出身。高校卒業後、清掃会社で働きながら、プロキックボクサーを目指して練習に励むも、けがをきっかけに断念。作業療法士を目指す。最愛の母の死をきっかけに、「慎 the spilit」の名でラッパーとしての活動を開始。現在は、滋賀県豊郷町にある豊郷病院 精神科の作業療法士として働くかたわら、ラッパーとしても精力的に活動している。
内気な子どもがヒップホップで変化
僕は生まれた頃から、アトピーとぜんそくとアレルギーがありました。ある日、学校の給食でマグロのピーナッツ和えが出るとき、(ピーナッツアレルギーだったので)母はマグロの和え物を持たせてくれました。みんなと同じ食事ができるようにという母の優しさだったと思います。でも、僕はみんなと違うことがすごく恥ずかしくて。「なんでわざわざ持ってきたの?」と友達から聞かれて、嫌な気持ちになりました。
その後も、周りにはできるだけアレルギーを隠し続けました。首のかきむしり傷も、服で隠していましたね。心配性で、人にどう見られているかばかりを気にしている内気な子どもでした。
一方で、このままではまずいし、殻を破りたいという気持ちもありました。静かな人間関係は刺激がなくて楽しくありません。学校にはヒップホップを聴くのが好きな同級生たちがいて、彼らのやんちゃな雰囲気に憧れていました。僕もヒップホップをよく聴いていたし、自分は誰よりも、彼らが好きなヒップホップについて詳しいという自信がありました。そこで意を決して、ヒップホップの話をすることでやんちゃな同級生たちの輪に飛び込んでいきました。実際に話してみると、考えがめちゃくちゃなところもあるけれど、僕のことをよくわかってくれて。すごく居心地の良い場所でした。アレルギーのこともなんとも思っていない友人たちで、彼らと接する中でいつしか周りの目を気にしないようになりました。
キックボクサーの夢、破れる
高校にはあまりなじめず、多くの時間をヒップホップ好きな地元の友人と過ごしました。卒業後は、担任の先生に勧められた大学に進学するも、学びたいことがなくて行く意味を見いだせず、3か月で退学しました。
それからは、昼間は窓ガラス清掃のアルバイトをしながら、夕方には友人と遊ぶ生活が始まりました。とても楽しかったですが、さすがにこのままの生活を続けるのはヤバいなと思いましたね。腐っている自分を立て直すために、この世の中で一番きついことをやってみようと考えていたとき、先輩が通っているキックボクシングジムがあると聞き、行ってみることにしました。
はじめてスパーリングをしてみるとすごく面白いし、ジムの会長からも「プロにならないか」と勧められました。練習すればするほどハマるし、会長も熱心に指導してくれて。僕の夢は「プロキックボクサー」になりました。その後、アルバイトをしていた窓ガラスの清掃会社で正社員になり、プライベートの時間はキックボクシングの練習に打ち込みました。充実した毎日でしたね。
ある日、練習試合で相手選手のキックを思いっきり腹にくらいました。なんとか我慢するも、翌日痛みに耐えきれず救急車に。結果は膵臓の断裂で、すぐに7時間にもわたる大手術を行いました。
「もうキックボクシングはしないでください」。お医者さんから発されたのは、衝撃的な一言でした。一気にどん底に突き落とされましたね。またキックボクシングを始める前の腐った自分に戻るんだろうなと、寝たきりの状態で考えていました。
翌日、ジムの会長がお見舞いに来てくれました。僕の姿を見て、涙を流して悲しんでくれたんです。その涙を見たとき「プロキックボクサーになる夢が絶たれたからといって、腐ってしまってはこの人に申し訳ない」と思いました。プロキックボクサーになるために熱心に指導してくれたのはもちろん、人として僕と真剣に向き合い、大事にしてくれた恩人だったからです。
そして、対戦相手のことを考えました。もしけがのせいで自分がだめ人間になったら、彼は責任を感じるかもしれません。彼のキックボクシング人生を邪魔することはできないと思いました。そこでキックボクシングをやめて、次の道を探すことにしたのです。
ただ、やりたいことはありませんでした。そんなとき、仲良くなった看護師さんがリハビリに携わる作業療法士の仕事を勧めてくれました。2か月にわたる入院生活で医療職にはなじみがありましたし、作業療法士は自分のイメージにも合いそうだなと思いましたね。退院後、22歳で作業療法士の育成をする専門学校に入学しました。
母の死を乗り越えて
専門学校に入学して2年ほど経った24歳のとき、寛解していたはずの母のがんが再発しました。弱っている母を見ながらも、特別な行動はせず、いつも通り学校に通い、友達と遊んでいました。母の余命があとわずかである事実を認めたくなかったんです。
しかし、母はそのまま亡くなりました。お葬式の前夜、母が眠る部屋で家族と過ごしました。僕はイヤホンで音楽を聴きながら、母に思いを馳せました。すると、メロディに誘われるように歌詞が思い浮かんできて。衝動に駆られるままに、急いでペンを走らせました。このやり場のない感情を、なんとか外に吐き出さなければ保てない、そんな感情でした。書いてみることで、苦しい心が、ほんの少しだけ落ち着いた気がしましたね。その後も心が壊れそうになる日が何度もありましたが、弱っている自分をそのまま受け入れ、悲しみに寄り添ってくれる家族と友人に支えられ、なんとか保っていました。
専門学校にも通い続けました。天国で見守る母に恥ずかしくない自分でいたかったからです。あるとき、実習で精神分野の病院に行くことになりました。僕自身、母の死を経験して落ち込み、鬱は誰でもなる病気だと感じていたので、患者さんに対して共感を覚えました。それに実習もすごく楽しかったんです。精神領域では、自分の思いをなかなか言葉にできない患者さんがどんな風に考えているのかを考える必要があります。患者さんたちとのコミュニケーションを通じて、自分の視野が広がっていくのが好きでしたね。その経験から、卒業後の就職先は、精神科のある病院に決めました。
実際に働いてみると、患者さんに向けられる世間の目の厳しさを実感しました。心の病は偏見にさらされている現実があります。その偏見が、心の不調を感じている人が医療機関を受診できなかったり、命を絶ってしまったりする現実に結びついていると感じました。
しかし実は、心の病は誰にでもなりうる、身近なものです。偏見を持つことは自らを苦しめることにつながりかねません。その偏見を解いて、社会全体で心の病に対する理解を深めたいと考えました。
同じ時期に、母を失った気持ちを書いたラップを歌ってみました。自分だけにこの悲しみを閉じ込めておくには限界だったからです。すると、ふっと心が軽くなったんです。今までは聴くだけでしたが、歌を作ることの魅力に気づきましたね。それからは、「慎 the spilit」という名前で、地元滋賀への思い、母への愛、アレルギーの経験など、感じたことを歌うようになりました。
心の病についても、ラップとして歌詞にしてみることにしました。僕自身、作業療法士として働くまで心の病のある人と関わったことがなく、よく知らない存在でした。ほとんどの人がそうだと思います。ラップを通じて発信することで、今まで興味のなかった人たちにも届けられるのではと考えたのです。
そこでSNSに曲をアップしてみると、多くの反響がありました。顔も知らない誰かが僕のラップを聴いて、何かを感じてくれたのだと思うととても嬉しくなりましたね。曲は口コミでも広まり、学校で講演をしたりメディアの取材を受けたりする機会も増えていきました。
コロナ禍を機に、内面を磨き込む
現在、滋賀県にある豊郷病院の精神科で作業療法士をしながら、ラッパーとしての活動を続けています。最近になって外来も担当するようになり、復職や復学を目指している患者さんに接することが増えています。ときには患者さんが働く職場に同行しながら、支援させていただくこともあります。
コロナ禍となり、医療従事者である僕は今も心の病に関する講演やライブ活動はしていません。当初は音楽を生で発信できないことに、すごく悩みましたね。単に歌詞を書いてSNSで発信するだけでなく、実際に生で歌うことに大きな喜びややりがいを感じていたからです。悩んだ末、ライブ活動などに費やしていた時間を、内面を磨く時間に充てることにしました。同い年のアーティストの楽曲を聴いて、自分はまだまだだとすごく悔しくなったんです。ライブができない今だからこそできることをしようと考えました。
それからは信頼しているプロデューサーの力を借りながら、歌を磨き込んでいきました。ヒップホップの歴史や、ヒップホップが生まれたアメリカの文化を学んだりもしましたね。何度もダメだしをくらってへこむこともありましたが、自分が納得できる作品を生み出せることに大きな喜びを感じました。人前で歌うことへの喜びから内面的な充足感へと、自分の意識が変わっていったように思います。
同時に、作業療法士として勉強も深めていきました。実際に臨床に出る中で、作業療法士という仕事がどうやって生まれたのか、自分が仕事をしている滋賀県はどんな特徴があるのかなど、もっと知らなければいけないことがたくさんあると感じたからです。ほかにも、疾患やマネジメント、他職種についてなど、様々なことを学び、自分自身を磨いています。
プライベートにおいても変化がありました。家族ができ、子どもたちと接する中で、自分自身も成長できている実感があります。なにより、子どもたちといるのがすごく幸せです。今の人生の優先度でいうと、仕事より音楽より子どもですね。平日はなるべく仕事を定時で終わらせるようにして、子どもと過ごす時間を増やしています。保育園の準備なども率先してやります。子どもたちがもう少し成長したら自分の活動に時間を充てようと思いますが、今はこのバランスが必要ですし、自分自身も楽しんでいます。
心の病は身近なもの
仕事でやりがいを感じるのは、患者さんの人生に触れたときです。入院するほどつらい状態のときから支援をしていたある方は、現在は退院し、仕事をしています。たまに顔を合わせる機会に話を聞くと、本当にやってよかったな、いい経験させてもらえたなと思いますね。その人の人生の大きな決断や大きな行動に一緒に寄り添えたことが、すごくありがたいと感じます。
ただ、社会復帰だけが正義ではありません。その人本人の思いに寄り添い、その人たちの喜びを一緒に感じることが大事です。その人たちの歴史を紐解きながら、少しずつ関わって、その人らしい過ごし方や幸せを提供できたらと思います。
ラップで心の病について発信し始めた当時と変わらず、社会の課題は今もなお残っていると感じます。私たちが普段接する長期入院の方々は、社会と接する機会がかなり少ない現状にあります。しかし実際は苦しみを抱えている人たちがいるし、その存在はとても身近なものです。そして、わかり合えることだってできます。僕が作業療法士として発信することで、身近にいることを認識してもらい、偏見や差別や誤解がなくなると嬉しいですね。
僕のこれまでの人生は、順風満帆とはいえませんでした。作業療法士になったのも25歳、本格的に音楽を始めたのも25歳で、周りと比べると遅咲きです。でも、今はとても幸せですし、これまでの選択に後悔はありません。つまずいて一歩立ち止まっても、絶対そこからまた前に進めるんです。今の生き方に迷っている人も、その生き方だけが正解ではないし、いくつになってもやり直せます。今を悲観せず、前を向いてがんばってほしいですね。
編集後記
編集:株式会社ドットライフ
ライティング:林 春花
作業療法士とラッパーという二足のわらじを履いて、自らの思いを発信している佐々木さん。幼少期は、内気な性格だったというから驚きです。そんな佐々木さんを変えたのは、友人たちとの出会いとのこと。憧れの人たちの輪に飛び込んだことで、今の自分ができたと語ります。その勇気こそが佐々木さんの人生を前進させた源泉なのだろうと感じました。
佐々木さんが考える社会の問題点を聞いて、身に覚えがあった方も多いのではないでしょうか。私もその一人です。まずは「慎 the spilit」のラップを聴いてみることから、他者への理解を深めていきたいと思います。
ライティング:林 春花
作業療法士とラッパーという二足のわらじを履いて、自らの思いを発信している佐々木さん。幼少期は、内気な性格だったというから驚きです。そんな佐々木さんを変えたのは、友人たちとの出会いとのこと。憧れの人たちの輪に飛び込んだことで、今の自分ができたと語ります。その勇気こそが佐々木さんの人生を前進させた源泉なのだろうと感じました。
佐々木さんが考える社会の問題点を聞いて、身に覚えがあった方も多いのではないでしょうか。私もその一人です。まずは「慎 the spilit」のラップを聴いてみることから、他者への理解を深めていきたいと思います。
2022年12月27日取材