2021/10/12
「自分の幸せは何か」に向き合い自分が誰を笑顔にしたいかを考え抜く/根岸 えま
様々な場所で色とりどりに活躍している20代、30代。彼らのインタビューを通して、これからの社会で活躍し、「Well-being」に生きるためのヒントを探っていきます。
今回は、宮城県気仙沼市で漁業の担い手を育成する「一般社団法人 歓迎プロデュース」の理事を務める根岸えまさんに話をうかがいました。
今回は、宮城県気仙沼市で漁業の担い手を育成する「一般社団法人 歓迎プロデュース」の理事を務める根岸えまさんに話をうかがいました。
根岸 えま
一般社団法人 歓迎プロデュース 理事
1991年生まれ。東京都出身。立教大学社会学部卒業。大学在学中に、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県気仙沼市のボランティア活動に参加。大学卒業後、気仙沼市唐桑町に移住。2015年に「一般社団法人まるオフィス」を、2019年には「一般社団法人 歓迎プロデュース」の立ち上げに携わり、銭湯「鶴亀の湯」と「鶴亀食堂」をオープン。現在は、同団体で沿岸漁業の担い手育成事業を行う。
1991年生まれ。東京都出身。立教大学社会学部卒業。大学在学中に、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県気仙沼市のボランティア活動に参加。大学卒業後、気仙沼市唐桑町に移住。2015年に「一般社団法人まるオフィス」を、2019年には「一般社団法人 歓迎プロデュース」の立ち上げに携わり、銭湯「鶴亀の湯」と「鶴亀食堂」をオープン。現在は、同団体で沿岸漁業の担い手育成事業を行う。
ボランティアで出会った気仙沼の漁師の使命感に心打たれる
「気仙沼を日本一漁師さんを大切にする町にしたい」
これが、気仙沼に移住して活動を続ける私の想いです。
これが、気仙沼に移住して活動を続ける私の想いです。
2011年3月11日、大学1年生だった私は、テレビに次々と映し出された東日本大震災の被災地の様子から目が離せませんでした。同年秋、大学2年生の時に、「震災で町が丸ごとなくなってしまうとは、いったいどういったことなのか」という思いから、宮城県気仙沼市でのボランティア活動に参加しました。
気仙沼市は、誰もが知る漁師町です。マグロやカツオ、サンマなどの遠洋・近海漁業、牡蠣やホタテ、ワカメなどの養殖業が盛んで、大勢の漁師さんとその家族が暮らしています。
その町で、私は初めて“漁師”という存在に出会いました。70歳の現役漁師の方が、私を家に招待してくれたのです。「これは、俺が獲った魚だから全部食っていけよ!」と言われて出された生きのいい魚を口に運びながら、私は「この魚は、漁師さんが命がけで獲ったものなんだ」という事実に気づき、ハッとしました。東京で生まれ育った私にとって、魚は切り身の状態でスーパーで買うものでしかなく、その時初めて、自分が食べる魚を獲った漁師の方々の存在を感じたのです。
その漁師さんは、震災時のことをポツリポツリと話してくれました。
地震が起きた時、その漁師さんは船を泊めてある浜から車で30分ほどのところにいました。大きな津波が来ると、船は陸に打ち上げられてしまうため、漁師さんたちは波が小さいうちに自ら船を沖に出します。急いで港に向かいましたが、仲間は既に船を沖に出した後であり、今から船を沖に出そうとすると、押し寄せる波に飲み込まれてしまうかもしれないという状況でした。それでも、命がけで、山のような高さになった波を越えて、なんとか船を沖に出しました。
津波によって、船の重油タンクが流され、家や車に引火して火災が発生し、気仙沼の湾内は火の海となりました。沖から戻ってきた漁師さんたちは皆、壊滅的な被害を受けて変わり果てた故郷の姿にがくぜんとしました。家族や家を失った方々も大勢いました。
そんな状況の中でも、その方は漁業の再開に向けて、毎日歩き回って流された自分の漁具を拾い集めました。しかし、ある日、必死に集めた漁具が、昨日まで仲の良かった漁師に盗まれてしまったのです。
当時のことをその漁師さんは、「日本人は、避難所でもきちんと並んで支給品をもらって素晴らしいとしか報道されていなかった。でも、そんないい話ばかりじゃないんだ」と語り、「人間どん底をみて、本当に漁師なんてクソ食らえだ、この町なんて、漁業なんてクソ食らえだ……!」と語気を強めました。
呆然と聞き入っていた私は思わず、「それでもなぜ、漁師を続けているのですか」と尋ねました。すると、その方は「俺はこの50年間、漁業で生かされてきた。どんなことがあっても海が好きなんだ。漁師の仕事に誇りを持っている。この町の漁業を、自分が率先して変えていかなければならないと思っている」と語りました。
漁業や町への圧倒的な使命感。困難にあっても前を向くたくましさ。そうした生きるパワーに、私は心を強く揺さぶられました。この衝撃的な出会いが、私の生き方を決定づけることになったのです。
「自分が誰を笑顔にしたいのか」気仙沼で暮らすことを決意
私は大学を1年間休学し、気仙沼で暮らしてボランティア活動を続けました。そして、復学して大学4年生となり、自身のこれからについて考え始めました。既に卒業して働き始めていた友人たちに話を聞くと、「上司の顔色をうかがって仕事している」「毎日、満員電車に乗って、何のために自分が働いているのかわからない」と語っていました。それを聞いて、「本当の幸せってなんだろう」「働くってどういうことなんだろう」と考えました。東京の企業に就職して働いたら、お金をたくさん稼ぎ、都会の家に住み、家庭を持ち、安定した暮らしができるかもしれません。しかし、それが自分にとって幸せなのだろうかと、自問する日々が続きました。
そして、東京の企業から内定を得ていましたが、自分の心の声に従い、気仙沼で働くことに決めました。私がした決断は、多くの人はしないのかもしれません。でも、大事なのは、自分の意思だと感じたのです。
私がそう思えたのは、両親の存在が大きくあります。小さい頃から、「大企業で働いても幸せとは限らないよ」「大学は名前で選ぶのではなく、そこで何を学びたいのか、何をしたいのかが大事だよ」と、私の意思を一番大事にするよう声をかけてくれました。
中高生の時も、学力で他者と比べられるようなことがほとんどありませんでした。勉強よりも、委員会活動や学校行事で仲間との活動に没頭できる環境がありました。特に高校2年生から3年生にかけて、自分で課題を設定して卒業論文を書く活動は熱中し、自らの疑問から興味・関心を広げていく楽しさを知りました。自分の意思で挑戦できる環境があったことが、今につながっていると感じます。
気仙沼で出会った人たちも、「あなたが本当にやりたいことは何なの?」「周りは関係ないよ。あなたはどう考えているの?」と、一人の人間として私と向き合ってくれました。そして、気仙沼のかっこいい漁師さんたちのそばで働くことが自分らしくいられることだと気づいたのです。
不透明な未来。でも、自分のしたいことに迷いはない
2015年に気仙沼市唐桑町に移住し、一般社団法人まるオフィスを仲間とともに立ち上げ、地域教育や市から受託した移住定住促進事業を担いました。その後、2019年に気仙沼に住む女性経営者2人と、一般社団法人 歓迎プロデュースを設立し、銭湯「鶴亀の湯」と「鶴亀食堂」をオープンしました。
これは、冒頭にお話しした「気仙沼を日本一漁師さんを大切にする町にしたい」という想いから実現させた取り組みです。被災しながらも営業し、131年続いた銭湯「亀の湯」は、防潮堤建設のために廃業となり、漁師さんが水揚げ後に、ゆっくり手足を伸ばして入れる憩いの場所はなくなってしまいました。そこで、私たちの団体でクラウドファンディングを実施し、2019年に開業することができました。
私の役目は、漁師さんたちの困り事を解決することです。話を聞く中で、多くの漁師さんが「漁業を継承する若手がいない」という課題を挙げていました。「このままでは、30年後に魚を獲る人がいなくなってしまう」という危機感に後押しされ、2020年から気仙沼の漁師さんと新たな担い手をつなぎ、若手漁師を育成する「気仙沼市沿岸漁業担い手対策支援事業」を気仙沼市とともにスタートさせました。
現在は、新人の漁師さんを取材してウェブサイトで発信したり、「漁師に関心がある」といった問い合わせがあれば、漁業研修を調整したりしています。この先の収入は保証されていませんし、事業が誰かに守られているわけでもありません。自分で事業を創っていかなければ、何も動くことはなく、未来は常に不透明です。それでも、自分で決めて始めた事業であり、自分がやりたいことをできているので、迷いや不安はありません。
誰もが替えの効かない存在 少しずつ町が変わっていく
その手ごたえが、私のやりがい
「誰かを笑顔にする」という想いが、私の原動力です。地域で働く魅力は、その手ごたえをダイレクトに感じられることだと思います。
例えば、今までは地元を離れた若者に「この町には仕事がないから、帰ってくることはない」と言っていた人たちが、「えまちゃんたちが若者を増やそうとこの町を盛り上げているのだから、自分の子どもにそんなことを言うのはやめようと思った。今は、『いつでも帰ってきていいよ』と伝えているよ」と言ってくれるようになりました。
私は、きっかけを作っているだけにすぎません。そこから、町の人たちが今まで以上に自分たちの町の可能性を感じてくれるようになれば、これ以上うれしいことはありません。小さなことですが、住民一人ひとりの意識が変わることで、少しずつ町が変わっていくと感じています。
町や人に魅力を感じて移住をする若者も増えています。唐桑半島には、私も含め移住した20代の女性が15人くらい住んでいます。Peninsula(半島)+turnで、「Pen.turn(ペンターン)」と名付け、古民家をシェアハウスしながら暮らし、休みの日には海に行ったり畑に行ったり、地域の人たちと交流しながら、それぞれが自分らしく生活しています。
企業であれば、誰か1人が辞めてもその穴を埋める人がすぐに入ってきます。しかし、気仙沼では一人ひとりが主役でプレイヤー。地域をよくするために関わる「関わりしろ」がたくさんあるこの町で、替えの効かない存在として働けることにやりがいを感じています。実は私には大きな夢や目標はありません。その時々の「これやってみたい!」という心の声に従っています。
失敗したりうまくいかなかったりすることもありますが、船に乗って海から昇る朝日を見た瞬間にもう忘れてしまうんです。強い生命のエネルギーを感じると、自分の落ち込みなどちっぽけなことに思えます。「まず行動してみればいい」「失敗しても大丈夫だ」「がんばっていれば誰かが助けてくれる」「がんばっていればなんとかなる」そんなことを思い、再び走り出すことができる。海の上の漁師さんたちの横で朝日を浴びている時、私は最高に幸せでいられます。
30年後もこの町で漁師さんが魚を獲っている。そうした光景がずっと続くために、これからも自分らしく働いていきます。
編集後記
「気仙沼の漁師さんに会いにきてください」。インタヴューの最後に、根岸さんは満面の笑みで言いました。その姿は、言葉で言い表す必要がないほどに、心から漁師と気仙沼という町に惚れ込んでいることを伝えていました。
根岸さんは大学卒業時に、「自分の幸せは何か」をとことん考え抜いたからこそ、今のご自身を築くことができたのだと思います。「自分の幸せ」と向き合うことは、自身の人生を生き抜く上で何よりも大切なことのはず。しかし、それができている人は多くはないのかもしれません。根岸さんの取材から、私自身、大きな宿題をもらったように感じました。
根岸さんは大学卒業時に、「自分の幸せは何か」をとことん考え抜いたからこそ、今のご自身を築くことができたのだと思います。「自分の幸せ」と向き合うことは、自身の人生を生き抜く上で何よりも大切なことのはず。しかし、それができている人は多くはないのかもしれません。根岸さんの取材から、私自身、大きな宿題をもらったように感じました。
2021年6月21日取材