2021/11/02
「誰かのために書く」を胸に単身パリへ ビジネスパーソンと書家であり続ける自分だけの道/小杉卓
各界で活躍する20代・30代の若者のインタヴューを通して、これからの社会で「活躍」し、「Well-being」に生きる多様なモデルを、そして社会のよりよい未来を考えるヒントを探っていきます。
今回は、東日本大震災でのボランティアを機に、書家とIT領域で活躍するビジネスパーソンというパラレルなキャリアを歩むことを決意した小杉卓さんにお話をうかがいました。
今回は、東日本大震災でのボランティアを機に、書家とIT領域で活躍するビジネスパーソンというパラレルなキャリアを歩むことを決意した小杉卓さんにお話をうかがいました。
小杉 卓
アクセンチュア株式会社
書家
1990年生まれ。栃木県鹿沼市出身。国際基督教大学教養学部卒業。6歳から祖母に書道を習い、2011年の東日本大震災を機に書家を志す。一方で、ITを駆使した一次産業の再興に強い関心を持ち、大学卒業後の2013年、日本マイクロソフト株式会社に入社。2017年に退職し、単身フランス・パリへ。個展や講演、パフォーマンスなど、書家として活動。翌年、帰国し、2020年からアクセンチュア株式会社に勤務。
書家
1990年生まれ。栃木県鹿沼市出身。国際基督教大学教養学部卒業。6歳から祖母に書道を習い、2011年の東日本大震災を機に書家を志す。一方で、ITを駆使した一次産業の再興に強い関心を持ち、大学卒業後の2013年、日本マイクロソフト株式会社に入社。2017年に退職し、単身フランス・パリへ。個展や講演、パフォーマンスなど、書家として活動。翌年、帰国し、2020年からアクセンチュア株式会社に勤務。
訪れた被災地で
「誰かのために書く」書家を志す
「書を書いてくれないかな」
2011年5月、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大槌町の避難所で、ボランティアをしていた大学3年生の私が、そう声をかけられた時、正直、戸惑いました。6歳から書道を習ってきましたが、私が続けてきたのは学校の書道の授業で学ぶようなお手本を見て書く臨書。自分以外の誰かのために、書を書く。その経験はまったくなかったからです。どんな言葉がよいのか、どういう書体にすればよいのか、どの道具を使うか。そんなことがグルグルと頭の中を駆け巡りました。
2011年5月、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大槌町の避難所で、ボランティアをしていた大学3年生の私が、そう声をかけられた時、正直、戸惑いました。6歳から書道を習ってきましたが、私が続けてきたのは学校の書道の授業で学ぶようなお手本を見て書く臨書。自分以外の誰かのために、書を書く。その経験はまったくなかったからです。どんな言葉がよいのか、どういう書体にすればよいのか、どの道具を使うか。そんなことがグルグルと頭の中を駆け巡りました。
私が訪れていた避難所は、400年続く地域の伝統芸能・鹿子踊(ししおどり)の活動場所である公民館でした。鹿子踊は、海と山に囲まれた大槌町で、豊作豊漁や海上安全などの祈願を込めて、農漁民が笛や太鼓のお囃子にあわせて舞う伝統芸能です。家族や自宅を失い、口数が少なかった方も、鹿子踊の話になると饒舌になっていました。「お祭りの時期には踊りを踊ろう」と口々に言い、2011年の夏も大勢の人が踊ったほど大切にされている地域の文化でした。
「この鹿子踊をテーマに作品を作ろう」と思った私は、「鹿鳴」という言葉を最も古い漢字体の一つである篆書体をベースに書き上げました。それを見た大槌町の人々は、「自分たちのことを考えて書いてくれてありがとう」と、とても喜んでくださいました。
それまでも書道は好きでしたが、コンクールで賞を獲得するのが一番の目標でした。しかし、自分が書いた書で、人の心を動かすことができたという経験に驚かされ、背中を押されました。そして、もっと目の前にいる人のために、書を書きたいと思うようになりました。
ITの力で地方の暮らしや経済に貢献したいと考え、
日本マイクロソフトに入社
東日本大震災の被災地へは、日本マイクロソフトが行っていたIT支援ボランティアとして訪れました。「IT支援」といっても、当時の私は日本文学を専攻する大学生。「本当に自分が役に立てるのだろうか」と心配はありました。
いざ訪問してみると、各避難所にはWi-Fiとパソコン1台が支給されているだけで、パソコンをインターネット回線につなぐといったセットアップができずに困っているという状況でした。そのため、仮設住宅がいつできるか、罹災証明書をどのようにして受け取るのかといった情報がまったく行き渡っていませんでした。ある避難所では、支給されたタブレットが鍋敷きにされていたという話も聞きました。そこで私は、パソコンのセットアップやインターネットを使った情報収集のお手伝いをさせていただきました。
そんなある日、漁師の方から、「これまで自分が捕った魚を電話でしか販売したことがなかったけれど、インターネットを通じて売ることはできるだろうか」という相談を受けました。この一件以降、地方の暮らしや産業に対して、ITというツールを使った支援ができる力をつけたいと思うようになりました。
私は2011年5月から大学を卒業する2013年3月まで継続的に(合計20回ほど)被災地を訪れ、ボランティア活動を続けました。訪問する度にその思いは強くなり、大学卒業後の2012年に日本マイクロソフトに入社。私生活では書家としての活動をしながら、コンサルティングとセールスのチームで勤務しました。
私は2011年5月から大学を卒業する2013年3月まで継続的に(合計20回ほど)被災地を訪れ、ボランティア活動を続けました。訪問する度にその思いは強くなり、大学卒業後の2012年に日本マイクロソフトに入社。私生活では書家としての活動をしながら、コンサルティングとセールスのチームで勤務しました。
パリのInvalidesで書道パフォーマンスをする小杉さん
会社を辞め、単身渡ったパリで
創作活動に没頭
ITコンサルタントの仕事は充実していましたが、2017年に会社を辞め、単身、フランスのパリに渡りました。目的は、書家としての創作活動に没頭するためです。以前から、パリには強い関心を持っていました。長年ピアノを習っており、ラヴェルなど、フランスの作曲家が好きだったのです。高校時代に、音楽盛況の時代のパリでは絵画の文化も花開いていたことを知り、モネやルノワールといった印象派の画家にも魅力を感じるようになりました。
「見る人の心が大きく揺らぐような表現を自分も実現したい」、書に真剣に取り組む中で次第にそんな思いが強くなっていきました。自分が心動かされた音楽や絵が生まれた街で、自分も創作活動に没頭しよう。そう決意し、会社を辞めて、飛行機に飛び乗りました。
パリに知り合いはおらず、フランス語もあまり話せません。そこで、渡仏前、友人に知人を紹介してもらい、「パリに行ったら会いに行く人」をリストアップし、渡仏後は、片っ端からその人たちに会いに行きました。作品のポートフォリオを見せて、「自分は書家で、パリでこんなことをしたい」と、思いを伝え続けたのです。
すると、少しずつ、イベントでのパフォーマンスやレッスン、大学で書道について話をする機会などをいただくようになっていきました。パリでの一番の学びは、「自分から動かなければ、何も動かない」ということです。人に会うことも、創作活動をすることも、自分で動かなければ何も始まらない。パリでは、「何のためにここにいるのか」を1日何十回も自分に問い続けました。その結果、パリで過ごした1年間は、これ以上ないほど濃密な時間になりました。その経験は、今の自分の背中を押す原動力となっています。
やりたいことにはとことんこだわる
という両親からの教え
2020年からはアクセンチュアでITコンサルティング業務に就いています。「書家を続けるのであれば、もっと時間をつくりやすい仕事の方がよいのでは?」と言われることもあります。しかし、自分が熱意を持ってできる仕事でなければ、それこそ自分の時間を割くのはもったいないと思うのです。今の仕事は、ITで社会に貢献できる力を身につけることができ、とてもやりがいを感じています。また、コロナ禍で在宅勤務になり、通勤に時間をかけずに済むようになり、書道活動に充てられる時間が増えたことも幸いしています。
私が大事にしていることは、「自分がやりたいと思ったことをやれる環境にいること」と「たくさんの人に会える環境であること」です。書家とビジネスパーソンという2つの顔を持っているからこそ、研ぎ澄まされた専門技術を持つ職人から、マルチタスクを華麗にこなすビジネスパーソンまで、多様な方々と出会えます。確かに、書家としての活動にかけられる時間は制限されます。しかし、自分が選び取っている今の状況に大きな意義を感じています。
そうした「したいことをする」という生き方は、生まれ育った家庭からの影響を受けているかもしれません。両親からは、自分が「これだ」と決めたことにはとことんこだわりなさいと教えられました。例えば、中・高校生で吹奏楽とオーケストラに夢中になり、「自分の楽器がほしい」と言うと、「よい楽器を買いなさい」と費用を出してくれました。また、コンサートに行きたいと言えば、「一番よい席で聴きなさい」とチケット代を渡してくれました。大人になって自分でチケットを買うようになって安い席に座ると、高い席との違いは明確でした。
自分のやりたいことをよい環境で行う、それを幼い頃から体験させてもらえたことは、非常にありがたかったです。決して裕福な家庭ではありませんでしたが、好きなことには妥協せずにこだわることを許されていたし、応援されてきたのだなと思います。
「焦らず成熟しよう」
道は一本道ではない
私にはずっと忘れられない言葉があります。それは、高校2年生の時に東京大学が主催したイベントに参加した際、中国哲学がご専門の中島隆博教授に言われた「焦らず成熟しよう」という言葉です。私は、そのイベントで、自分の発表をシンプルにわかりやすく話そうとしていました。すると、中島教授は、「うまくまとめようとするだけでなく、もっとゆっくりいろいろなものに目を向けながら、考えを深めていくことが大切です。焦らず成熟しよう」と言われたのです。
特に高校生や大学生の時は、「きちんと答えを出そう」「上手に答えよう」と思うものです。しかし、道は一本ではなく、紆余曲折もあるでしょう。それは、人とは少し異なる道を歩んでいる私の背中を押し続けてくれる言葉でもあります。学生の方にもあまり焦らずに自分の道を進んでほしいと思います。
これからも、私は書家とビジネスパーソンという2つの役割に向き合い続けていきます。書家としては、音楽とコラボレーションをしたパフォーマンスを進化させることが目標です。例えば、海外のファッションブランドとタイアップし、コレクション発表の際に書のエキシビションをするといったことを構想しています。アクセンチュアでは、リーダーとなりプロジェクトを遂行する経験を積んでいきたいと考えています。
今はうまくいかないことがあったとしても、それを失敗だとは思いません。プロセスが中途半端だっただけ。夢を実現するために、何度でもやり直せばよいのです。挑戦したいことはまだまだ尽きません。
編集後記
「小杉さんの書く書を生で見てみたい」、お話を聞く中で小杉さんの作品への興味がどんどん湧いていきました。ごまかしのきかない芸術作品には、きっと小杉さんの生きる姿勢がありありと投影されているのでしょう。
なぜ小杉さんがオリジナリティーある道を歩めるかといえば、単身でパリに渡った際に自分に投げかけた「何のためにここにいるのか」を、今も常に自分に問い続けているからかもしれません。社会に対して、自分は何がしたいのか。その問いこそ、小杉さんにしか歩めない道をつくっていったのでしょう。
自身と向き合い、常に自分の思いを実現すべく動き続ける。そんな小杉さんの書は、きっと私たちの心を大きく揺さぶり続けてくれるのだと思います。
なぜ小杉さんがオリジナリティーある道を歩めるかといえば、単身でパリに渡った際に自分に投げかけた「何のためにここにいるのか」を、今も常に自分に問い続けているからかもしれません。社会に対して、自分は何がしたいのか。その問いこそ、小杉さんにしか歩めない道をつくっていったのでしょう。
自身と向き合い、常に自分の思いを実現すべく動き続ける。そんな小杉さんの書は、きっと私たちの心を大きく揺さぶり続けてくれるのだと思います。
2021年8月6日取材