ノーベル平和賞受賞者と高校生が貧困を考える
ここ十数年、様々な機関が未来の学びについて議論しています。未来を生き抜ける学びは、現在の小中高生、そして次世代の子どもたちに向かって、届けられるようにしておくことが大事です。そのためにはどうすればよいのか、私の実践の一端をまずお伝えしたいと思います。
ノーベル平和賞受賞者であるムハマド・ユヌス氏が、2019年11月に講演会で京都を訪れる際に、日本の若者と交流したいというお話に関わる機会をいただいた時のことです。その貴重な時間をユヌス氏の講演と通り一遍の質疑応答だけで終わらせてはもったいないと思い、参加者の学びが深まっていく膝詰めの対話の場を企画しようと考えました。
京都府内の公立高校に声をかけ、準備を始めたのはユヌス氏を迎える2か月前です。市立・府立の4つの高校1・2年生16人が興味をもって集まってくれました。貧困問題についておそらく世界で一番深く携わってきたであろうユヌス氏を迎えるにあたり、相対するこちら側も短期間で考えを深めるだけ深める必要があると考えました。そこで、「貧困とは何か?」という問いについて、30日間、毎日一つずつカードに書くという「30日チャレンジ」を始めました。
初日の決起集会では、さっそく貧困をほかの言葉に言い換えて、その後、そのイメージをブロックで表現してもらいました。プレゼンテーションに慣れている生徒たちの発表はどれも上手で、きれいにまとまっていたのですが、それはまだインプットした情報量が少ない状態だったからでした。もちろん、制作したブロックはとても面白い観点から表現されていて、小さい家の人が中くらいの家の人をのぞき、中くらいの家の人が大きい家の人をのぞくという、「相対的な高望みが貧困の仕組み」などと極めて的を射た表現が短時間で出てきたのですが、まだそれ以上には深まりませんでした。では、どうすればよいのだろう...。結局、2時間の打ち合わせでは、ほとんど打つ手なしといったお手上げ状態で、初日を終えました。
1週間も過ぎると、生徒は書き出す言葉に詰まっていきました。「貧困とは富の再配分である」「貧困とは無限ループである」などと表現も堂々巡りが続きます。それでも表現を考えて、さらに絞り出していく中で、徐々に貧困への考えが深まっていく手応えを、生徒自身が感じてきている様子でした。まず、自分たちには知識や視点が足りないことを自覚できたことが大きかった。本を読んだり、インターネットで関連記事を調べたりして、またそれを批判的に確かめるべく、ほかの人に話を聞くなどして、思考を深め、少しずつ自分たちの語彙が増えてくる実感があったようです。
16人が30個ずつ、合計約500個の問いの中から、選りすぐりの問いをユヌス氏にぶつけました。高校生が4人1組でユヌス氏と15分間ずつ向き合い、自分たちが考えたことを自分たちの言葉で問いかけたのです。
©2019 Naoyuki Ogino, Impact Hub Kyoto
「格差を解消するものとして教育に期待が集まるが、日本では教育投資額の差が次に受けられる教育の差を生むといわれています。教育によって、むしろ格差は広がるのではないでしょうか」「今、自分たちは恵まれた状態にいる。格差を埋めたら、自分たちが損をするかもしれない。それでも、私たちが貧困に目を向けるには、どのような言葉が必要か」といった、大人だったら絶対口にしないような質問を、ユヌス氏に投げかけました。
すると、ユヌス氏は真摯にお答えくださりました。「貧しさはその人の特性ではなく、その人が望もうが望むまいが、システムとしてつくられている。そのシステムを社会がつくったのであれば、それをつくった側にも、そのシステムの中にいて知らぬふりをしている者にも責任がある」と答えました。
また、別の高校生の質問は、「私たちが30日考え続けてきた宿題(貧困とは何か?)をユヌス博士が出されたとしたら、なんて返しますか」と、これもまた世界で一番考えてきたであろう人に、大人であれば必ず躊躇して聞けない本質的な問いをズバッと射抜いたのです。そして、ユヌス氏は、その日に参加したすべての高校生、大人が固唾をのむ中でシンプルな一言で回答されたのです。 "Denial of the Opportunity(機会が拒絶されていること)"
「機会がないのではなくて、奪われている。個人の問題ではなく、システムの問題であり、与えられたシステムを疑う勇気が大切である。与えられたものが自分に合わなかった時、システムのために、組織のために、会社のために、働く必要はない。自分でそれをつくりなさい」と、ユヌス氏は思いを語っていました。大人や社会がつくったルールに闇雲に従う必要はない。むしろ自分たちで創造しなさい、と言っているようでした。
自分たちが本気で貧困について考えたことに対して、世界で一番、貧困について考えた人が本気で応えてくれた瞬間、高校生たちの目が輝きました。その高校生たちの学びの瞬間を周囲にいた大人も、目頭を熱くして注目していました。ユヌス氏に深い学びを携えて向き合えたことは、高校生にとってとてつもなく貴重な経験になったのだと感じました。しかもそれが誰かから与えられた言葉の暗記ではなく、自らの頭と胸に何度も何度も問いかけながら真摯に向き合った結果としての姿だったのです。
©2019 Naoyuki Ogino, Impact Hub Kyoto
システムは自分たちで変えられる
貧困について考え始めた高校生たちは、「かわいそう」「恵まれない」「努力が足りないこともある」など、それを個人の要因による問題として捉えていました。しかし、考えを深めていくうちに、貧困は個人だけではどうにもならないシステムの問題だと気がつきました。しかし、大きなシステムといえどもそれは人がつくったもの、手順に沿って考えれば、それは自分たちの力で変えていくこともできることに気がつきます。ただ、その手順は、自分の行動を変えるといった手順とは異なる大きな視点が必要となりますが、個人の独力だけを評価する今の学校教育では全体を俯瞰する力を直接には学べるようになっていないことが問題なのです。
未来に必要な力の一つは、自分の現在地から見える範囲内だけでなく、そこから少し高い位置に視座を置き、全体状況をシステムとして俯瞰する力だと考えます。もう一つの力は、創造的自信です。それは、自分の努力や過去を信じる経験的自信とは別に、まだ相対していない問題を前にしても、自分は何かを変えることができるという未知へ対峙する自信です。この創造的自信を身につけるには、少しの背伸びを繰り返す挑戦の連鎖に身を置くほかはありません。
私は中高生向けの講演会で、「義務教育の定義」のことを紹介します。児童生徒の多くは義務教育が学校へ行く義務だと勘違いしていることが多いのですが、法律のどこにもそんなことが書かれていないと言うと、皆驚きます。子どもが学びたい時にそれを応援する義務を大人が負っているという法律であって、子どもにとっては学ぶことは権利であることを知ってほしいのです。
もう一つ、講演会の中で紹介するのが「"まなぶ"の反対語と類義語」を考えてもらうことです。反対語が「わすれる」「あそぶ」、類義語が「おぼえる」「がまんする」であったりすると、相当苦しそうな勉強の姿が想像できます。講演会全体を見渡した時に必ず出てくる答えの一つに、「まなぶ」の反対語に「おそわる」があります。ある学校で講演会の最後に生徒代表の挨拶の言葉が、いまも記憶に残っています。「"まなぶ"の反対語に、私は"おそわる"を書きました。私は、高校の3年間で何も学んでいなかったことに気がつきました」
学校は誰のものなのでしょうか。授業も時間割も成績表も、大人から子どもに渡されます。もちろん、洗練された良質のものをよかれという想いで。自分でわざわざその真偽を疑わなくとも、学べる良問と答えのセットはこの上ない資産です。しかし、これからの子どもたちには疑う力こそが必要です。鵜呑みにしない力こそが必要です。すでにあるシステムが誰かにとって都合がよく、また、別の誰かにとっては都合が悪いかもしれないというシステムの課題を知ってほしいのです。そして、そのシステムも歴史に耐えてきたという側面はあれど、人がつくったものである以上、自分たちに合わせて変えようと思えば変えられると知ってほしいのです。子どもが真に自分の学びに向き合う機会を増やすことで、きっとそのシステムが変えられるかもしれないという自信をもつことができるのではないでしょうか。