進化の過程に着目し発明の手法を考える、
誰も教えてくれなかった発想や発明の方法
「未来の学び」に大切なことというお題に対して、私の専門分野であるデザインの視点から、創造性や課題発見・解決能力についてお話ししたいと思います。
デザインとは、その形によってどういった関係が生まれるのかまでを考えて、形を整えることです。形は必要な状況によって、ふさわしい形状が異なるので、当然ですが単に見た目がかっこよいデザインがよいものだとは限りません。
人間は様々なデザインをつくり上げてきました。ただ、人間よりもデザインが上手な存在があるとしたら、それは生物の進化だと考えています。進化は、形質の変化によるイノベーションの連続とも言えます。結果論ですが、環境に適合した形をそれぞれの場所で生み出しています。そうした考察から私は、生物の進化から創造性の本質について考えるようになり、創造性教育のためのメソッドを、「進化思考」というプログラムとして体系化しました。
進化は、基本的に偶然による「変異」の出現と、生息環境下で生存や繁殖に有利な変異が自然選択によって広がる「適応」的な過程を、何度も遺伝的に繰り返すことによって、個体の意志を介在せずに起こります。例えば、たくさんの卵からは、ちょっとずつ形が違う生物が生まれてきますよね。これが変異です。変異には有利なものも不利なものも混じっていますが、生息環境で子供を残しやすい変異が次世代に伝わり、それを何世代も繰り返すと、徐々に状況に適応したデザインとなっていきます。それが、ダーウィニズム、自然選択による適応進化の原理です。
進化的な発想のためには、淘汰圧となる「関係」を理解する"秀才"的なプロセスがあるだけではなく、「変異」を生み出す知恵、すなわち"バカ"になる知恵も必要なはずです。しかし残念ながら、現在の教育では「関係」のごくごく一部を国語・算数・理科・社会といった形で切り取ったものを教えるのみで、「関係」を教える上でも中途半端ですよね。文系・理系、教科ごとに違うみたいな乱暴な分け方で世界を理解できるはずがありません。
また、「変異」に相当する「今とは違うことをやる方法」は、全くと言っていいほど教えてはいませんね。これからを生きる子どもたちには、正しく「関係」を理解する方法や、新しい「変異」をどんどん出せる創造性を学んでほしいと思っています。学校の教科学習も、なぜ教えているのか、どのように「関係」を学んでいるのか俯瞰して理解できれば創造的な思考につながります。
作品名:evolutionary map "MOBILITY" 写真提供:太刀川氏
では、「関係」を俯瞰し理解する方法として、進化思考の「時空観」を説明しましょう。
自然科学において世の中を理解する方法は、大別して四つあります。一つめは解剖(内部)で、分解して中にあるものを確認すること。二つめが生態(外部)で、それぞれのつながりの先に、何があるかのシステムを理解すること。三つめは系統(過去)で、車輪がなければ、馬車は登場せず、馬車がなければ自動車が発明されることはないように、歴史の文脈を理解すること。そして、四つめが予測(未来)。創造的であるためには、フォアキャスティングとバックキャスティングの両方を駆使して未来を想像しなければなりません。この四つがあれば、たいていの物事の関係性を説明できます。空間的・時間的な関係性を網羅的に考える手法として、これを進化思考では、四つまとめて「時空観」と呼んでいます。
出来事には、こうした様々な「関係」があります。例えば、タンカーの事故が起きた際、原油の輸出という「社会」の経済的な影響を考える一方、被害に遭った「生物」への影響も調査しなければいけません。それらは、一つの事象で結びついていますが、ひとたび教科で言えば国語・算数・理科・社会という教科に分けられてしまうと、それぞれの「関係」は分断されてしまいます。こうしたものを時空観の視点はつないでくれます。
作品名:evolutionary map "MOBILITY" 写真提供:太刀川氏
解剖は、教科にあてはめれば理科のように思えますが、英語の文法は解剖的だと言えます。社会科の中にも、解剖的・生態的・系統的・予測的なそれぞれの視点を見いだせるでしょう。このようにすべてのカリキュラムは、この四つの考え方に分解してあてはめることができるのではないか、という仮説を持っています。解剖、生態、系統、予測の時空観的な視点によって物事を考えていくと、様々な事象が起こる理由に自分で気づくことができます。
創造性のための教育では、自由な学びを提供するだけでは意味がありません。その学びがなぜ必要なのかという目的を、学び手が解剖や生態、系統を通して自発的に発見することが大切です。そのためにも様々な事象の関係性を問うことはとても重要であり、それによって得られた自分の学ぶ目的に従うことで、学習は、やらされるものではなくなります。学校においても、「先生」という存在は決して従わなければいけない存在ではなく、自分を進化させるための目的に至る上での善きガイドであるべきなのではないでしょうか。