日本の未来の学びに大切なことは何か。
様々な立場から教育の第一線で活躍する6人が一堂に会し、現在感じている課題や、未来の学びに対する思いを語り合いました。その「未来の学びを考える会議」レポートの第1回。
国際比較において日本の教育を見つめる信州大学大学院教育学研究科の林寛平准教授が未来の学びを展望します。
「レジリエント」な生徒が多い日本
私は「教育の輸出」について研究しています。例えば、エボラ熱の影響により、学校教育を十分に提供できなくなったアフリカのリベリアでは、2016年に小学校約50校を民間にアウトソースすると発表しました。
委託先には、様々な投資家や企業が出資するアメリカの企業ブリッジ・インターナショナル・アカデミーズ(BIA)などがありました。BIAはアンドロイド端末を使って世界各地の各校に学習システムを提供しています。教育文化は、本来、年月をかけて少しずつ発展していくものですが、確立された教育がいきなり輸入されることが、世界では起きているのです。
そうした世界動向を踏まえて、日本の教育の状況を考えてみたいと思います。
経済協力開発機構(OECD)が実施する「生徒の学習到達度調査」(PISA)において、日本は概して優秀な成績を収めています。数学的リテラシーと科学的リテラシーでは、OECD加盟国の中でトップレベルの成績を収め、さらに成績下位層の割合が少ないのが特徴です(編集部注:本会議後に公表されたPISA2018では日本の読解力が低下したことが話題になった)。
そして、学力とともに注目されているのが、逆境に打ち克つ力を持つ「レジリエント」な生徒の割合です。OECDでは「レジリエント」な生徒を社会経済文化的指標が全体の下位25%以下に位置する生徒のうち、成績が上位25%以上の生徒と定義しています。PISA2015の結果では、OECD諸国のレジリエントな生徒の割合は全体の29%でしたが、日本では48.8%と高い水準にありました
(OECD 2016)。つまり、日本は不利な環境に置かれた生徒が優秀な成績を収めることができる教育制度があるということになります。
生徒の成績が上位でも、教員の満足度は最下位
日本は教育費に占める公的支出の割合が低いことが知られます。それでは、国が教育費を投じれば、よい教育ができるのかといえば、そうでもありません。PISAを分析すると、1人当たりの教育費支出が約5万ドル以上の国では、教育費と学力の相関はほとんど見られなくなることが分かります。
それは、教員給与についても同じです。低所得の国では、教員の給料と成績は比例しますが、先進国においては、教員給与と成績の相関は見られません。また、「国際数学・理科教育動向調査」(TIMSS)の結果からは、教職経験が長い先生に教わった生徒が良い成績を出すとも限らないことが示されています。つまり、給料が高いベテラン教員が指導したからといって、優秀な成績を収められるわけではないのです。
また、一般的には学習時間が長いほど成績が高い傾向があり、生徒の授業時間・学習時間と成績は正の相関を示します。しかし、TIMSS2015における各国の得点を授業時間数で割ると、先進国では、授業時間が短くても好成績を上げている国があります。例えば日本の数学は、授業時間が110時間未満であるのに対し、575点という高得点を得ていました。一方、成績の低い国や地域は授業時間が長い傾向が見られました。このことから、量の多少よりも、質の違いが、学習効果の違いを生んでいると推測できます。
中学校教員の週当たり勤務時間
日本では、生徒は高い成績を収めているものの、教員の教職に対する満足度は最下位です。「国際教員指導環境調査」(TALIS)の2013年と2018年の調査では、日本の教員の勤務時間は参加国・地域の中で最も長い上に、その改善策が十分検討されていませんでした。教員の職業満足度も向上していません。
社会問題を解決する力をPISAで測れるのか?
次に注目したいのは、探究学習とPISA型学力との相関です。PISAの結果では、探究学習はテストとの相性が悪く、成績に負の相関が表れました。さらに、PISAの正答率と経過時間の関係を分析すると、テスト開始後10分くらいまでは得点が上がりますが、37分過ぎにはテスト開始時よりも正答率が悪くなります(林良平
n.d.)。このデータは様々な解釈が可能ですが、最も単純な理解として、生徒の集中力が落ちている、という説明もできると思います。
最近ではGRIT(やり抜く力)などと言われ、課題に粘り強く向き合うことが成功のカギだと主張されています。また、OECDの「ラーニングコンパス」では、主体性や創造力などの非認知能力の必要性が強調されています。しかし、このデータが示唆する点は、非認知能力は身につければいつでも発揮できる、無尽蔵な資質・能力ではなく、限りあるリソースではないか、という可能性です。非認知能力の育成について議論する際は、その点を考慮する必要があるでしょう。
PISAで測られている能力は、1997年から実施されたDeSeCo(「コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎」)が原型となっています。このプロジェクトでは、21世紀に求められる資質・能力が調査され、まとめられました。それから20年以上が経ち、このコンセプトは見直しが迫られています。OECDは「Education
2030」として、2030年の社会で求められる子どもたちの資質・能力を検討しています。
しかしこの議論は科学的な調査ではないため、どちらかというと将来必要だと予測される項目をまとめた資質・能力のコンセンサスであると特徴づけることができます。大規模アセスメントで測定するためには、正答がなければなりません。つまり、誰も正答を持っていない、未解決の社会課題の解決を図るために必要な、真に未来に求められる資質・能力は、今のアセスメントや評価軸では測れないと考えるべきです。
日本はPISAもTIMSSも好成績ですが、政府も学校も成績が下がることを非常に危惧し、様々な方策を立てています。一方で、日本は、飛躍的に生産性を高めないと経済的に立ち行かなくなるという問題を抱えています。また、学習へのモチベーションが低い状況も深刻で、学校適応の問題にも解決策を見いだせていません。「ひきこもり」は、ヨーロッパなどではそのまま"Hikikomori"という用語として使われるほど、最近では世界各国で問題となっています。
このような環境を見ると、日本は教育課題の最先端にいます。PISAで測れる資質・能力は非常に狭い範囲に限られています。新しい問題を解決する資質・能力を評価する軸は、誰も示してくれませんので、新しく自分たちでつくっていく必要があるのです。
日本が目指す社会に合致した能力観とは何か?
PISAなどで測定可能な能力観は、実施団体の設置背景や運営体制から考えても、個人主義や自由主義と親和性の高い概念だといえます。各国の能力観は、地政学的状況に依存していて、人々が望ましいと考える能力の様相も地域ごとに異なることを意味します。そのため、既成の能力観を流用するだけではなく、日本という国をどのような立ち位置で成り立たせようとするかを考え、日本が求める能力観を再考し、提案していく必要があるでしょう。
教育は、人を変容させることに大きな意味があります。教育の方法やアセスメントは、社会変容を前提として構築されるべきだと思います。近年では、中国が経済特区を設けて自由経済を行う一方で、自由主義陣営でも個人が保有する資産を他者に提供するシェアリング・エコノミーなど、社会主義的な思想が反映されたシステムが浸透してきています。そのように、東西が互いに浸潤する中、さらに進んだ将来の能力観がどのように変化していくのか、教育学の立場から注視していきたいと思っています。