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桜田門外の変で襲撃された井伊直弼とは?きっかけとなった出来事3選紹介

桜田門外の変とは、1860年に起きた井伊直弼の暗殺事件のことです。歴史の教科書などでも取り上げられるため、聞いたことがある人もいるでしょう。この記事では、この事件の中心人物である井伊直弼とはどういう人か、なぜ桜田門外の変が起きたのかなどを解説します。

桜田門外の変とは?

『桜田門外の変』は、1860年に『江戸城桜田門』の近くで起きた、元水戸藩士17名と薩摩藩士1名による、江戸幕府大老(将軍の補佐)・井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺事件のことです。

日本の歴史のなかでも有名な事件で、2010年には吉村昭さんの小説を基に『桜田門外ノ変』のタイトルで映画化されています。

また、教科書にも歴史上重要な事件として書かれていることが多いですが、事件の詳しい内容まではあまり知らないという人も多いのではないでしょうか。

この記事では中心人物となった井伊直弼の人物像から、事件のきっかけや経緯をわかりやすく紹介していきます。

桜田門外の変で襲撃された井伊直弼とはどんな人物?

まず、桜田門外の変で襲撃された井伊直弼とは一体どんな人物なのでしょうか。

自分の反対派を次々と抑え込むなど独断的で、どちらかというと悪いイメージを持っている人も多いかもしれません。

ここでは、その生い立ちや功績などを順を追って紹介していきます。

生い立ち

井伊直弼は1815年(文化12年)、近江彦根藩主の家に14男として生まれます。幼いころから、和歌、居合術、禅などをたしなむ賢い子どもでした。

ただ、彦根藩は名門ですが、藩主となる長男以外は他藩の養子になることがほとんどでした。しかし、直弼には兄弟が多く、ほかの大名の養子にはなれませんでした。そのため17歳から32歳まで15年ものあいだ、彦根城の堀のそばでひっそりと、藩主の家の子としては恵まれない生活をしていたそうです。

しかし、跡継ぎとなるはずだった兄が亡くなったことで、運命は一変。井伊家に残っていた直弼に後継者の地位が回ってきます。そして、35歳のとき、藩主の死去を受けて彦根藩の藩主となったのです。

功績

井伊直弼は日米修好通商条約の締結や、藩の改革などさまざまな功績を残したとされています。

彦根藩主として政治をおさめた際には、吉田松陰も絶賛するほどの良い政治を行ったそうです。責任感が強く、積極的に状況の改善などに取り組んだという功績があり、今も名君と謳われています。

桜田門外の変が起きるきっかけとなった出来事3選

桜田門外の変が起きた背景には、さまざまな事情や出来事がありました。事件の名前は知っていても、詳しく内容がわからない人もいるでしょう。

ここでは、それを大きく3つに分けて紹介します。

桜田門外の変が起きるきっかけ1:将軍の跡継ぎ問題

まずは、将軍の跡継ぎ問題です。

身体の弱かった13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の後継者として、井伊直弼ら将軍側近からの支持で、徳川慶福(とくがわよしとみ、のちに家茂(いえもち)に改名)に決定しました。

これの何が問題かというと、12代将軍の徳川家慶(いえよし)をはじめ、鹿児島藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)などの各地方の有名な藩士たちは一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、のちの徳川慶喜)を推していたのです。

つまり、井伊直弼は半ば強引に跡継ぎを決めてしまったのです。

桜田門外の変が起きるきっかけ2:日米修好通商条約

2つめは日米修好通商条約です。

アメリカのペリー率いる黒船が日本に来航した翌年(1854年)に、再び訪れたペリーとの間に日米和親条約が結ばれました。この時点では貿易は行われず、燃料や食料の補給が主な内容でした。

1856年に総領事として着任したハリスが貿易の開始を要求し、その条約が有名な日米修好通商条約です。

この内容は、関税自主権(国が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利)を日本が持たない、アメリカの治外法権(ある国の領土にいながら、その国の法律・統治権の支配を受けない特権)を認めるなど、要はアメリカ側にとって都合の良い内容でした。

しかし井伊直弼は、当然として起こった反発を強くおさえ込み、朝廷の許可を得ないまま認めてしまったのです。

桜田門外の変が起きるきっかけ3:安政の大獄

3つめは安政の大獄です。

朝廷の許可を得ることなく条約を結んだことで、井伊直弼の政治の行い方に多くの批判があがりました。同時に将軍の跡継ぎを勝手に決めたことに強い反発がおこります。

すると井伊直弼は、幕政に反対する人を次々と処罰していきます。

特に水戸藩が反対の中心だったので強く抑え込みますが、水戸藩に限らず幕政に対して批判的な人たちも対象となり、そのなかには『松下村塾』(しょうかそんじゅく)の吉田松陰(よしだしょういん)も含まれていました。

桜田門外の変の二面性

見方を変えればこの事件には、違う一面が見えてくるでしょう。

強引に、日本にとって大切な人材まで処罰した井伊直弼のやり方に、現在も批判や疑問を投げかける人もいます。しかし、混乱の時代の中で、徳川幕府の権威と秩序を保って安定的な国の運営を行うためには、将軍後継問題や通商条約に反発する人の処罰することもやむを得なかった。実際、責任を一手に引き受けて亡くなった井伊直弼がいたからこそ大きな内乱や戦争を避けられたという見方もあります。

このように、独りよがりで非道な処置とされる物事も、違う見方をすれば仕方ない判断だったと評価されることがあります。物事には、絶対に正しいことはないのだということを忘れずに、なるべく客観的に判断することが大切だといえるでしょう。

桜田門外の変のその後

1860年3月3日の朝、舞い散る雪のなか、井伊直弼が彦根藩(滋賀県彦根市)邸を出発し『江戸城』へ向かう登城中、『桜田門外』に差しかかったところで井伊直弼は殺され、その首を奪われてしまいました。

この事件の後、幕府の権威は低下していき、朝廷の力が強くなっていきます。

桜田門外の変からの学べること

この桜田門外の変から学べることは「伝えようとすることの大切さ」ではないでしょうか。これは日常の生活でも大切なことです。

井伊直弼のように何かと何かの間で悩んだ末の決断だったとしても、それは本人にしかわからないことで、周りの人たちにはそのいきさつまでは伝わりません。そして、それが結果として悪い方向へ進んでしまうこともあるのです。

生きていくうえで何かを選択・決断するときに独りよがりにならず、まず周囲に伝えよう、理解してもらおうとする姿勢が大切なのではないでしょうか。

桜田門外の変について理解しましょう

桜田門外の変で暗殺されてしまった井伊直弼は、さまざまな功績を残したとされています。日本にとって大切な人材まで処罰した井伊直弼のやり方は、良い評判だけでなく悪い評判も多く存在します。

しかし、この事件からも学べることは多いでしょう。桜田門外の変について理解し、誰かに伝えようとすることの大切さを考えてみましょう。

「桜田門外の変」が起きた「外桜田門」へ行ってみましょう

吉村昭(よしむらあきら)の歴史小説を原作とした映画である、『桜田門外ノ変』として取り上げられる場所があります。それは、『外桜田門』と言われる場所で、東京都の千代田区にあります。

『江戸城』(現在の皇居)の内堀に造られた門の一つで、人気の観光スポットです。

アクセスマップ

名 称:旧江戸城外桜田門
時 間:24時間開放
休 日:年中無休
料 金:無料
住 所:千代田区皇居外苑

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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