天保の改革とは?
天保の改革とは、老中水野忠邦が老中首座になった1841年から1843年のおよそ2年間行われた改革です。天保の改革の主な内容は、財政の引き締めと物価の抑制、農村の復興のための人返しの法です。ここでは時代背景とともに改革の詳細をみていきます。
天保の改革が行われた時代背景
政治状況
天保の改革が行われる前は、「大御所時代」と呼ばれ11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)が実権を握っていた時代でした。徳川家斉は1837年に徳川家慶(とくがわいえよし)に将軍職を譲ってからも政治の実権を握っていたことから、大御所時代と呼ばれていたのです。
この時期は度重なる凶作による飢饉が発生。特に1833年から1839年の天保の飢饉では、凶作による物資不足による物価の高騰により、都市部でも飢え死にする人がでるほどの惨状が見られました。
天保の飢饉への奉行所や幕府の対応に不満をもった民衆によって一揆や打ちこわしも多発し、1837年には大阪奉行所の元与力大塩平八郎が反乱を起こします。
元与力による反乱ということもあり、幕府は大きな衝撃を受けました。
経済状況
天保の改革前の幕府の経済状況は逼迫していました。松平定信による寛政の改革で幕府の財政は一時的に立て直されましたが、その後の蝦夷地(えぞち)の経営等により臨時出費が増え寛政の改革路線の経済政策が行き詰まってしまったのです。
そこで幕府は従来よりも質を落とした文政小判(ぶんせいこばん)を大量につくります。
これにより約550万両の調達に成功するのですが、
大量の貨幣が市場に流入したため物価が上昇してしまいました。
外国との関係
1700年代後半から1800年代前半にかけての期間、ロシアをはじめとする列強諸国が日本に接近していました。ロシアは日本との通商を求めて幾度か来日しますが、幕府はこれを拒否します。ロシアとの関係が緊張したため、幕府は蝦夷地を直轄地として経営することを余儀なくされ、財政難に拍車をかけました。
また日本人を保護したアメリカ船を打ち払ってしまうモリソン号事件も発生。諸外国との緊張が高まっていた時代でした。
江戸幕府と大名との関係
天保の改革時には江戸幕府の大名への影響力が低下していました。その影響力の低下を如実に表しているのが「三方領知替え」です。
江戸時代は幕府が大名に、領地を変えるようにと命じる転封(てんぽう)という制度がありました。幕府は、1840年に川越藩松平家を省内へ、庄内酒井藩を長岡へ、長岡牧野藩を川越へと転封するようにと命じましたが各藩が反発。
川越松平藩が、11代将軍徳川家斉の子どもを養子にし、自藩に有利な転封になるようにと働きかけをしたため、他の藩が反対をしたのです。
幕府による転封の命令を、大名が聞き入れなかったのはこれが初めてのことでした。
ココだけは知っておきたい!天保の改革ポイント5選
天保の改革が行われた年代
天保の改革が行われたのは、徳川家斉が死去して老中水野忠邦が老中首座になった1841年から1843年のおよそ2年間でした。
天保の改革がいつ行われたのか、関係する年号を確認しておきましょう。
年号 | 出来事 |
---|---|
1839年 | 水野忠邦が老中首座になる |
1841年 | 徳川家斉死去、水野忠邦による天保の改革が始まる |
1841年 | 倹約令の発令 |
1841年 | 歌舞伎3座を浅草へ移動 |
1841年 | 株仲間の解散 |
1843年 | 人返しの法 |
1843年 | 上知令 |
1843年 | 水野忠邦の失脚による改革の失敗 |
改革を行った人物
改革の内容
天保の改革の主な内容は、財政の引き締めと物価の抑制、農村の復興のための人返しの法です。水野忠邦がまず取り組んだのは、倹約令でした。
身分の上下を問わず華美な服装や贅沢な食事を禁止。江戸の人々に人気があった寄席の数も減らし、歌舞伎3座を浅草に移動させました。さらに株仲間が物価の上昇の原因であると考えて、株仲間も解散させます。
また農村の人口減少と江戸の人口増加が財政悪化の原因であるとして、人返しの法を制定して、すでに長年江戸で暮らして家族を抱えている人を除き、農村に帰るようにと命じました。新たに農村から江戸に出稼ぎにくることも許可制として、農民の江戸への流入を防止しようとしたのです。
幕府の財政の改善を図るために上知令も発令されました。
上知令とは江戸大阪の周辺の高い収穫高が見込める土地を幕府の直轄地とし、その代わりに年貢収入が少ない土地を大名や旗本に与えようとする政策です。上知令は大名や旗本の猛反対を受けて失敗に終わりました。
改革を行わなければならなかった理由
改革が行われた結果
江戸時代の三大改革との違い
享保の改革
享保の改革は8代将軍徳川吉宗が1716年から1745年の間に取り組んだ改革です。目安箱の設置や町火消し制度の創設、新田開発の推奨や足高制度の導入や、身分を問わない人材登用などの優れた改革を多数実行しました。
享保の改革によって、幕府の財政は安定しましたが、一部の農村では年貢の負担増や飢饉によって一揆が多発しました。
寛政の改革
寛政の改革は1789年から1793年の間に、老中首座松平定信が行った改革です。祖父である徳川吉宗の享保の改革にならい、財政の引き締め等の改革に乗り出します。
旧里帰農令によって、江戸に出稼ぎに来ていた農村の人々を帰そうとしたり、生活苦にあえぐ旗本や御家人を救うために棄捐令という、借金を帳消しにする政策を打ち出したりしました。
寛政の改革は一定の成果を出しますが、民衆の反発を招き、また将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の不興をかったことから松平定信が解任されました。
寛政の改革は享保の改革ほどの成果は出していないと考えられています。
天保の改革から学べることとは
天保の改革から学べることは、「ルールを押しつけるだけでは反発されること」です。
天保の改革は、享保の改革や寛政の改革よりも、人々の生活への制約が多い改革でした。寛政の改革の旧里帰農令は、幕府が補助金や交通費を出して農村の出稼ぎ者を故郷の村に帰そうとする政策でした。
ところが、天保の改革の人返しの法はさらに制限を強くし、故郷に帰ることを強く命じた法律です。
倹約令も、享保の改革や寛政の改革よりもさらに厳しかったため民衆の反発を買います。上知令では御家人や大名からも全く支持を得られませんでした。
このように天保の改革は、人々に我慢を強いるだけであったため誰からの理解も得られず、早期に失敗に終わってしまいます。
これは私たちの生活の中でもよくみられる光景です。保護者が子どもに勉強をさせたいからと、ゲームや漫画を禁止することでますます子どものやる気が削がれることは珍しくありません。
享保の改革や寛政の改革を振り返ると、改革によって幕府だけでなく大名や民衆も利益がある内容でした。ただルールを押し付けるのではなく、「どのようになっていきたいのか」という理想像を示し、そのための行動として伝えていく姿勢が大切なのでしょう。
天保の改革について理解しましょう

天保の改革は、老中首座水野忠邦によって行われた江戸の三大改革の一つです。厳しい倹約令や人返しの法などにより、人々の支持は得られず早々と失敗に終わり、大きな成果をあげることはできませんでした。
天保の改革を推し進めた水野忠邦の名前を聞いて、「遠山の金さん」こと町奉行・遠山金四郎を連想する人も多いのではないでしょうか。遠山金四郎は実在の人物で、ぜいたくを禁じ、不景気をもたらした水野忠邦とたびたび衝突。江戸庶民の暮らしを守ろうと天保の改革に抵抗する姿勢をとったことから、のちに名奉行として人気を博しました。
そんな遠山金四郎が駐在していた場所の一つが、北町奉行所です。千代田区にある北町奉行所跡には、石組みの溝(復元)と解説板が設置されています。天保の改革の功罪について知るのに適した史跡といえるでしょう。
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アクセスマップ
名 称:北町奉行所跡
※情報は変更されている場合があります。
住 所:東京都千代田区丸の内1丁目8
料 金:無料
監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。