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島原の乱とは? その原因と経緯をわかりやすく紹介!【天草四郎】

写真提供:一般社団法人長崎県観光連盟

写真提供:一般社団法人長崎県観光連盟

日本最大の一揆、島原の乱とは?なぜ起こった?

島原の乱とは1637年(寛永14年)に生じたキリシタン農民による一揆です。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれます。

キリシタン農民らは、天草領主、島原領主らの悪政に反発して、廃城となった原城にこもり抵抗を続けました。参加した農民は3万8,000人。他方、幕府側の動員は12万人です。(規模や人数に関しては諸説あり・以下同)

挙兵してから原城が落城するまでに要した期間はなんと半年。江戸時代に起きた一揆の中では最も大きな規模でした。

キリスト教の伝来と布教

島原のキリシタン農民たちが蜂起した理由は、天草領主、島原領主による厳しい年貢の取り立てや徹底した禁教政策にありました。キリシタン農民に対する悪政を理解するためには、まず幕府や天草領主たちが推し進めた禁教政策を知っておく必要があります。

日本におけるキリスト教の歴史は1549年のフランシスコザビエルの来日によってスタートしました。

当初はキリスト教の布教は禁止されておらず、主に西日本を中心に広がりました。信者の数は数十万人に及んだとも言われています。

民衆だけでなく南蛮諸国との貿易を望む大名たちもキリスト教を保護しました。洗礼を受けてキリシタンになった大名もいます。彼らはキリシタン大名と呼ばれました。

代表的なキリシタン大名として、大友宗麟(おおともそうりん)、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大友純忠(おおともすみただ)らの名が挙げられます。

島原の乱の舞台となった島原藩の領主、有馬晴信が洗礼を受けたのは1579年でした。有馬晴信に続いて4,000人もの領民が洗礼を受けたと言われています。

キリスト教の禁止へ

ところが1587年、豊臣秀吉は、キリスト教の布教を禁じました。大名によるキリスト教の信仰も禁止されてしまいますが、当時はまだ民衆のキリスト教信仰については許されていました。

しかしながら、徳川の治世になると、さらに禁教政策が強まります。1613年、全国に向けてキリスト教禁止令が出されました。これによって、キリシタン大名の高山右近はマニラに追放されています。

島原藩での禁教政策

キリスト教禁止令が出された1613年時点の島原藩の藩主は、有馬晴信から家督を継いだ有馬直純です。

有馬直純はキリスト教禁止令が出されたことを知ってただちに棄教。領民にもキリスト教を諦めるように伝えました。

ところが、領民だけでなく家臣もキリスト教を棄てることはできませんでした。棄教を拒んだ三人の重臣とその家族は火あぶりにかけられてしまいます。

藩主が松倉重政(まつくらしげまさ)に変わると、島原領主によるキリシタンの弾圧は、より過酷さを増します。

松倉重政は原城を廃城とし、新たに島原城を築城しようとします。城普請の費用を確保するため、領民たちに通常の二倍の年貢を課し、キリシタンへの弾圧も継続しました。

島原藩だけでなく、天草藩(現在の熊本県天草郡を領有した藩)の領民たちもまた同じような苦境に立たされていました。

キリシタン農民の蜂起〜島原の乱

そして1637年、天草四郎を指導者に据えた領民たちが一揆を起こしました。10月25日、有馬村の村人が、圧政に耐えかねて代官を殺害したことが蜂起のきっかけだと言われています。

一揆軍は各地で勝利を納めますが、島原藩の島原城、天草の富岡城を落とすことができませんでした。そこで島原、天草の領民たちが合流して廃城になっていた原城に籠城。討伐軍の軍勢は最終的に12万人に及んだとされます。

幕府側は兵糧攻めを継続して、食料や弾薬が尽きたところで、松平信綱の指揮のもと、総攻撃をしかけます。翌2月28日、原城が落城。生き残りの人々も一人(絵師の山田衛門作)を除いて全員が殺されてしまいました。領民の被害者数は3万7,000人を超えていたと言われています。

幕府軍の被害

幕府軍による4回の総攻撃のうち、3回は幕府軍が敗北しています。そのため、島原の乱では、キリシタンだけでなく幕府側も甚大な被害を受けました。

また、幕府側の遣いとして九州の大名を指揮した板倉重昌(いたくらしげまさ)は総攻撃をかけた際に死亡しています。島原藩の藩主、松倉重政は一揆の責任をとらされ、鎮圧後に斬首されました。

島原の乱での幕府側の死傷者数は1万数千人であったと言われています。

島原の乱後、領民がいなくなってしまった島原領、天草領に強制移民令が出され、各地から移民がやってくることになりました。

カリスマ性を発揮したといわれる天草四郎の存在

島原の乱を語るときに、欠かせないのが指導者として知られる天草四郎です。

天草四郎の生い立ちとマルコス宣教師の預言

天草四郎の本名は益田四郎。父親は益田甚兵衛といい、父もまたキリシタンでした。

父親はキリシタン大名小西行長の家臣で、小西家が没落したとは農業に従事していたといいます。四郎は9才の頃から学問を始め長崎に遊学に行っていたようです。

四郎が生まれた1621年の8年前に当たる1613年、キリスト教禁止令が出された年に、「25年後に神の子が出現して人々を救う」とマルコス宣教師が予言を残していました。

そしてちょうど25年後の1637年、四郎は数々の奇跡を起こしたとされることから、人々は「神の子だ」と噂をするようになります。これが、ちょうど島原の乱が勃発した年です。

天草四郎の起こした奇跡と最期

島原の乱が起きたときの四郎は若干16才。今でいうと高校1年生です。

四郎が人々から支持された理由はどこにあったのでしょうか。マルコス宣教師の預言と、四郎の奇跡が運良く合致したためでしょうか。

四郎が起こした奇跡としてよく挙げられるのが、ハトが空から舞い降りて四郎の手の上で卵を産んだというものです。今となっては真偽の程は定かではありませんが、もしかしたら一揆勢に年若い四郎が大将として担ぎ上げられて神格化されていったのかもしれません。

天草四郎は原城落城後に捕らえられて斬首され、長崎でさらし首にされました。

島原の乱で学ぶ人が大切にしていることを否定する恐ろしさ【教え】

島原の乱は日本最大の一揆として、また多くの非武装民が殺された悲劇として人々の記憶に残っています。

なぜ島原の乱がここまでの規模に発展し、多数の被害者を生んだのかを考えるとき、たどり着くのが、信仰の否定です。

島原の乱以外にも宗教と大名が戦い、多くの被害を出した事例は多数存在します。人々が深く信じていること、大切に思っていることを否定したとき、そこには強大な負のエネルギーが生まれてしまうのではないでしょうか。

戦乱からは縁遠くなった現代日本でも、大切なものを否定されたことで起きる悲劇は今でも存在しています。

家族や友達、仲間たちが自分と違う意見、信仰を持っていたとしても、否定せずに受け入れることが大切です。相手の意見や気持ちに耳を傾けることは、みなが暮らしやすい社会を実現するための一歩となることでしょう。

原城跡に行ってみよう

天草四郎たちが籠城した原城跡は、今も当時の遺構の一部が保存されています。

敷地内には天草四郎像、天草四郎の墓、天草四郎の居宅跡などが点在しており、随所に島原の乱の傷痕が残っています。

原城跡は世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一部です。

アクセスマップ

名 称:原城跡
住 所:長崎県南島原市南有馬町
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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