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京都を焼け野原にした『応仁の乱』とは?

全国の侍が東軍、西軍にわかれた原因は?

「人の世むなし(1467年)、応仁の乱」

そんな語呂合わせでこの年号を覚えた人もいるかもしれません。この出来事をきっかけに、日本は乱世である戦国時代へと突入します。

では、その『応仁の乱』のきっかけとは何なのでしょうか。

ひと言でいってしまえば、室町幕府の将軍家と管領家の後継者争いです。

室町幕府の最高権力者は将軍です。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の建武政府を倒し、武家政権である室町幕府を作った足利尊氏(あしかがたかうじ)が初代足利家の将軍です。応仁の乱のときは、その血脈を継ぐ8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)でした。

そして、斯波(しば)氏、細川(ほそかわ)氏、畠山(はたけやま)氏といった三家が“三管領”(さんかんれい)と呼ばれ、将軍を補佐する管領の家柄でした。そのさらに下に、“四職” (ししき)という侍所の長官になれる家柄があります。赤松(あかまつ)氏、京極(きょうごく)氏、一色(いっしき)氏、山名(やまな)氏の四家です。

山名氏は“三管領”に比べると地位は下がりますが、6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)を暗殺した同じく四職の赤松満祐(あかまつみつすけ)を、山名宗全(やまなそうぜん)が主力となって討滅すると、山名宗全はその功から管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に匹敵する力を持つようになりました。

“三管領”である畠山氏の後継者争いから、その山名氏と細川氏の間で対立が深まっているところに、同じく将軍家でも跡継ぎ問題が勃発します。

8代将軍足利義政には嫡子(家の跡継ぎをする子)ができなかったため、出家していた腹違いの弟の足利義視(あしかがよしみ)を還俗(げんぞく・一般人にもどること)させて後継者に据えようとしていました。しかし、その翌年に、足利義政の妻・日野富子(ひのとみこ)が足利義尚(あしかがよしひさ)を出産したのです。

気の強い日野富子は、我が子を将軍にとその後ろ盾を山名宗全に依頼します。一方、足利義視も、わざわざ還俗したのだから私を将軍にしてもらえないかと、山名氏の対抗勢力である細川氏に助けを求めました。

当代将軍である足利義政の優柔不断な態度もあって対立は拡大し、細川方を東軍、山名方を西軍と呼び、全国の大名が京都に集結し、『応仁の乱』の幕が開くのでした。

『応仁の乱』の結果、室町幕府は哀れな末路へ

両軍の大将である山名宗全や細川勝元がこの世を去っても乱はなかなか収まらず、11年にも及ぶ戦いで、京都はすっかり焼け野原になりました。

結局、足利義政の子の足利義尚が9代将軍を継ぐことになりましたが、もはや将軍の威光はなく、中央では有力な守護大名が室町幕府の実権を握るようになっていきます。

権力を握りたいがための争いだったのに、足利家にとってはなんとも皮肉な結末です。

形だけとなってしまった幕府は領地も兵力もほとんど持たないまま、ひっそりと約100年後まで続きますが、織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされてしまいます。

――権力にほだされて争いを起こすようになると、社会全体が見えなくなってしまいます。

これは、どの国、どの時代でも同じです。

そんなことを『応仁の乱』と幕末の例を引き合いに出して、お子さまに伝えてあげるとよいかもしれません。

足利義政が政治を差し置いて築いた京都『銀閣寺』に行ってみましょう

8代将軍足利義政はもともと政治への関心が薄く、文化人的な側面の強い人物でした。この『銀閣寺』は正式には『東山慈照寺』(とうざんじしょうじ)といい、情緒あふれる書院造の代表ともいえる建造物です。政治面では、動乱の世のきっかけを作ってしまった足利義政ですが、趣味の面では“侘び寂び”の観念を生み出して、東山文化を誕生させたのです。

アクセスマップ

名 称:銀閣寺
時 間:夏季(3月~11月)8時30分~17時00分、 冬季(12月~2月末日)9時00分~16時30分
休 日:無休
料 金:高校生以上500円・小中学生300円
住 所:京都市左京区銀閣寺町2
電 話:075-771-5725
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。