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大坂冬の陣・夏の陣とは? 9つの戦いと主な武将、背景についてご紹介

大坂の陣とはどのような戦いだったのでしょうか。この記事では大坂の陣の概要や大坂冬の陣夏の陣での戦い9選、大坂の陣に関わった主な武将3選、大坂の陣から学ぶことなどをご紹介しますので、大坂の陣とはどのようなものなのか理解を深めてみましょう。

大坂の陣とは?

大坂の陣とは、1614年の11~12月に行われた「大坂冬の陣」と、翌1615年の4~5月に行われた「大坂夏の陣」という大阪城の周辺を舞台に行われた2つの戦いです。

この大坂の陣では豊臣本家(羽柴家)と徳川家康が戦い、徳川家康が勝利したことで、豊臣本家は滅亡することになりました。また、徳川家を頂点とする長い安定した政権が確立することになります。

戦いのきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」

「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)とは、方広寺大仏殿の釣り鐘に刻まれた「国家安康・君臣豊楽」という文字に対して徳川家がなんくせをつけた事件です。

徳川家はこの8文字の言葉が「家康」の2文字を分割しているように見えることから、「豊臣家の繁栄を願い徳川家に災いを招く呪いをかけている」と追及を行いました。

この事件をきっかけに、豊臣家と徳川家の間には決定的な亀裂が入り、開戦のきっかけとなりました。

背景

大坂の陣の背景には、関ヶ原の戦いで西軍を下した徳川家康が太閤直轄地を東軍へわけ与えたことで、220万石の4分の3を削減してしまったことがあります。

豊臣家は徳川家の主君筋となり、豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼が成人後に天下を収めるものだと信じていました。

しかし家康は、豊臣家に権力を握らせないよう、自身の息子である徳川秀忠に将軍職を、右大臣を秀頼に委譲し、秀忠を2代将軍としたことで徳川家の権威を示しました。

その後、反徳川の淀君が豊臣家の実験を握ったことで、両者の対立は避けられなくなりました。

大坂冬の陣・夏の陣総合9選

大坂冬の陣・夏の陣では9つの戦いが行われました。

豊臣家の滅亡という歴史上でも重要な有名な戦いとして語り継がれている大坂冬の陣と夏の陣ですが、この2つの戦いにはそれぞれ場所や時刻の異なる複数の戦いが行われていました。

ここでは大坂冬の陣・夏の陣で行われた9つの戦いについてくわしくご紹介していきます。

大坂冬の陣といわれる戦い5つ

大坂冬の陣では「木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)」「鴫野の戦い(しぎののたたかい)」「今福の戦い(いまふくのたたかい)」「博労淵の戦い(ばくろうぶちのたたかい)」「野田・福島の戦い(のだ・ふくしまのたたかい)」という5つの戦いがありました。

大坂冬の陣は、1614年11月19日の木津川口の砦での豊臣軍と徳川軍の衝突をきっかけに始まりました。ここでは大坂冬の陣での5つの戦いについて解説します。

大坂冬の陣といわれる戦い1:木津川口の戦い

「木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)」とは、1614年11月19日に大阪城の要衝である木津川口の砦で行われた戦いです。

幕府軍の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は、徳川家康から浅野長晟(あさのながあきら)、池田忠雄(いけだただかつ)と共に木津川口を攻略するように命じられていましたが、抜け駆けして攻撃を行いました。

その結果、砦は陥落しましたが、遅れた浅野の軍勢からは多数の溺死者が出てしまいました。

大坂冬の陣といわれる戦い2:鴫野の戦い

「鴫野の戦い(しぎののたたかい)」とは、大阪城東北の大和川南岸の鴫野村で行われた戦いです。

豊臣軍は鴫野村に柵を設置して守備していましたが、徳川家康はこの場所に付け城を築くために柵の奪取を命じました。

そこで上杉景勝(うえすぎかげかつ)が攻撃を行い柵を占拠し、さらに反撃してきた豊臣軍を水原親憲(すいばらちかのり)や安田能元(やすだよしもと)が撃退しました。

大坂冬の陣といわれる戦い3:今福の戦い

「今福の戦い(いまふくのたたかい)」とは、大阪城東北の大和川北岸の今福村で行われた戦いです。

豊臣軍は今福村に堀切と柵を設置して守備していましたが、徳川家康はこの場所に付け城を築くために柵の奪取を命じました。

そこで佐竹義宣(さたけよしのぶ)が攻撃を行って柵を占拠しましたが、救援の後藤基次(ごとうもとつぐ)に反撃を受けたため、対岸にいた上杉景勝などが銃撃によって豊臣軍を撃退しました。

大坂冬の陣といわれる戦い4:博労淵の戦い

「博労淵の戦い(ばくろうぶちのたたかい)」とは、博労淵の砦で行われた戦いです。

博労淵の砦を攻撃するために徳川家康は仕寄を築かせましたが、それよりも先に攻略しようと蜂須賀至鎮は萩の刈り取りを口実に攻略を思案しました。

しかし家康が石川忠総(いしかわただふさ)へ萩の刈り取りを命じたため、蜂須賀は夜中の内に木津川口に仕寄を構築し、夜明けの石川勢の攻撃と共に砦を陥落させました。

大坂冬の陣といわれる戦い5:野田・福島の戦い

「野田・福島の戦い(のだ・ふくしまのたたかい)」とは、摂津国の野田・福島地区で行われた戦いです。

豊臣軍は天満川と木津川の合流点に水軍を停泊させ、船倉を築いて守備していました。そこで幕府軍との小競り合いが発生していましたが、九鬼守隆(くきもりたか)などが急襲したため、怖気づいた守備兵は逃げていきました。

その後、池田忠雄(いけだただかつ)、戸川達安(とがわみちやす)が上福島の砦までを陣取りました。

大坂夏の陣といわれる戦い4つ

大坂夏の陣では「郡山城の戦い(こおりやまじょうのたたかい)」「樫井の戦い(かしいのたたかい)」「道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)」「八尾・若江の戦い(やお・わかえのたたかい)」という4つの戦いがありました。

大坂冬の陣では講和によって一応の決着が行われましたが、両家は次の戦いへの準備を進めていました。ここでは大坂夏の陣での4つの戦いについて解説します。

大坂夏の陣といわれる戦い1:郡山城の戦い

「郡山城の戦い(こおりやまじょうのたたかい)」とは、豊臣軍が筒井定慶(つついじょうけい)の守る郡山城を落とした戦いです。

徳川家康の命を受けて郡山城に入城していた筒井定慶らに、豊臣家は合力を求めました。しかし筒井氏がこれを断ったため、豊臣方は郡山城へ進軍し、兵力を見誤った筒井定慶が撤収したことで郡山城は落とされました。

大坂夏の陣といわれる戦い2:樫井の戦い

「樫井の戦い(かしいのたたかい)」とは、豊臣軍が浅野長晟(あさのながあきら)を攻めた戦いです。

豊臣軍は和歌山城の浅野長晟への攻撃のため、大野治房(おおのはるふさ)を主将に出陣させました。

樫井での戦いは激戦となり、大野治房は扇動していた一揆勢ともに攻略を試みますが、先鋒を争った塙直之(ばんなおゆき)、淡輪重政(たんのわしげまさ)らが討死したため大阪城に引き返しました。

大坂夏の陣といわれる戦い3:道明寺の戦い

「道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)」とは、大阪城へ向かう幕府軍を豊臣勢が迎撃した戦いです。

しかし寄せ集めだった豊臣軍は連携が取れず、後藤基次が討死し、次に到着した明石全登、薄田兼相らも敗走し、薄田兼相が討死しました。

また、真田信繁(さなだのぶしげ)や毛利勝永(もうりかつなが)が遅れて到着し、真田隊は伊達隊の進軍を押し止めましたが、豊臣は八尾・若江での敗戦したため、残兵を回収して後退しました。

大坂夏の陣といわれる戦い4:八尾・若江の戦い

「八尾・若江の戦い(やお・わかえのたたかい))」とは、大阪城へ向かう徳川本軍を豊臣勢が迎撃した戦いです。

道明寺の戦いと同日に行われた八尾・若江の戦いでは、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)隊が徳川本軍の藤堂高虎隊に奇襲をしましたが、追撃を受け壊滅しました。また、木村重成(きむらしげなり)も徳川本軍の井伊直孝隊と交戦の末、討死しました。

大坂の陣が世の中に与えた影響

大坂の陣によって大阪城は陥落し、豊臣家の時代から徳川家の時代へと移り変わりました。

関ヶ原の戦いによって世の中は戦国時代から江戸時代へと移り変わっていました。そして大坂の陣で豊臣家が滅ぼされたことで、徳川家康のおさめる長く続く太平の世となりました。

大坂の陣に関わった主な武将3選

大坂の陣にはどのような武将が関わっているのでしょうか。

大坂の陣では多くの武将たちが戦いましたが、その中でも中心的な存在であった人物や、後世にも語り継がれている3人の人物がいます。ここでは大坂の陣に関わった主な武将3選をご紹介していきます。

大坂の陣に関わった主な武将1:徳川家康

徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利をおさめ、天下統一によって戦国時代を終わらせた人物です。

徳川家康は幼い頃を今川家の人質として過ごしていましたが、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で織田信長に今川軍が敗れたことから独立するきっかけを得ました。

その後、地位を着々を築き上げた家康は、豊臣秀吉が没したことで天下統一へと動き出し、関ヶ原の戦いで勝利をおさめ、江戸幕府を成立させました。

大坂の陣に関わった主な武将2:豊臣秀頼

豊臣秀頼は豊臣秀吉の子で、大坂夏の陣で敗れたことで自害した人物です。

豊臣秀吉と淀殿の子として生まれた秀頼は、6歳の時に秀吉が亡くなったことで当主となりました。その後は、関ヶ原の戦いで西軍が敗戦したことで直轄領を65万石まで削られてしまいます。

そして1615年の大坂夏の陣、母の淀殿と共に大阪城で自害し、23歳という若さでこの世を去りました。

大坂の陣に関わった主な武将3:真田信繁

真田信繁は恩義がある豊臣家のために戦い、敗者でありながら「日本一の兵(ひのもといちのつわもの」と称賛された人物です。真田幸村の名前で広く知られています。

真田信繁は当主である父の主君が変わるたびに人質となっていましたが、豊臣秀吉のもとでもっとも長く過ごし、交流を深めました。

そして大坂の陣では、東軍は莫大な報酬を用意して信繁を誘いますが、秀吉への恩を忘れない信繁はその誘いを断り、己の義を貫いて西軍に味方しました。

大坂の陣から学ぶこと

150年続いた戦国時代を終わらせた大きな出来事である「大坂の陣」から、信頼関係を築くことが何よりも重要であるということが学べます。

大坂の陣では秀吉時代の側近などが亡くなったことで孤立した豊臣家がだんだんと追い込まれていき、助けを求めた武将も寄せ集めであったことから連携がとれず負けてしまいます。

一方で、秀吉への恩義のために劣勢の豊臣方に味方した真田信繁という武将も存在しています。そのため、人と人は信頼関係を築き、お互いに協力し合うことが大切だと言えるでしょう。

大坂の陣について知りましょう

大坂の陣は、豊臣家を滅ぼし、徳川家康の天下統一を決定づけた戦いです。

大坂の陣は徳川家康が豊臣家を滅ぼすためになんくせを付けたことをきっかけに始まり、大坂の陣で敗れた豊臣家は滅亡することになりました。

そして時代は豊臣家から徳川家の時代へと変わり、長く続く太平の世となったのです。

大坂の陣の舞台となった「大阪城」に行ってみよう

大阪城は江戸幕府によって新たに建て直されています。

現在の大阪城はさまざまな改修が施されており、当時の様子とは異なっています。しかし各フロアでは大阪城の歴史を学べる展示コーナーがあり、戦国時代の様子がよくわかるようなイベントも実施されています。

ぜひ大阪の象徴である大阪城を見に行ってみましょう。

アクセス

名 称:大阪城
時 間:9時00分~17時00分(最終入館は16時30分まで)ただし、桜シーズン、ゴールデンウィーク、夏休みは開館時間延長
休 日:年末年始(12月28日~1月1日)
料 金:大人600円・中学生以下無料(中学生は生徒手帳など要証明)
住 所:大阪市中央区大阪城1-1
電 話:06-6941-3044

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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