• 中学●年生
  • 教育動向

襲撃事件にて足を失うも内閣総理大臣を2回務めた伝説の人物・大隈重信

伊藤博文の宿敵! 早稲田大学の創設者・大隈重信とは?

日本の第8代・第17代内閣総理大臣にして『東京専門学校』(のちの早稲田大学)の創設者。

さらには襲撃事件に遭い右足の3分の1を失いながらも「我輩は、爆弾ぐらいで青くなるような腰抜けじゃない。そんなもの屁とも思っていない」と言ってのけた鉄人でもあります。

そんな数々の伝説を持つ人物の名は大隈重信(おおくましげのぶ)。

大隈重信は佐賀藩(現在の佐賀県・長崎県の一部にあたる)の砲術長の家に生まれた武士です。明治政府の藩閥である「薩長土肥」(さっちょうどひ)でいうと「肥」にあたる藩です。

7歳から『弘道館』(こうどうかん・今の県立学校のようなもの)に通い始め、「葉隠」(はがくれ・武士としての厳格な心得をまとめた書物)に基づく教育を受けますが、16歳の時に教えに反発して『弘道館』の改革を求めます。

その後とある騒動をきっかけに『弘道館』を退学し、蘭学(オランダ語で西洋の文化や学術を研究すること)や英語を学びますが、この経験が大隈重信の人生を大きく変化させていきました。

ちなみに、大隈重信はたいへん字がヘタだったと伝えられており、『弘道館』時代の字の上手な友人に対し劣等感を抱いていました。負けず嫌いの性格も相まって「字を書かなければ負けることはない」と一生のうちにほとんど字を書かなかったそうです。

明治維新では外国事務局判事としてキリスト教禁令についての交渉で活躍し、会計官副知事を兼任して金融行政に携わるなど着実に頭角を現しました。そして参議(国の政治に関する議事に参与する役目、現代でいう取締役員や理事のこと)や大蔵省(財務省)の長官を任されるまでに出世したのです。

その後、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとの政争に敗れて政府を追われますが、持ち前の高い外交能力を買われ再度内閣の大臣に復帰しました。その後、政党のリーダーとして力をつけ、1898年には初の政党内閣を組織します。しかも薩長以外で初の総理大臣でした。

薩長出身者を中心に回っていた日本に新しい風を巻き起こします。

伊藤博文とは良き好敵手であり、早稲田大学の開校式典で伊藤博文が「大隈くんとはいろいろ競ってきたけど、教育機関をつくったことに関してはかなわない」といわれ満悦の表情を浮かべていたというものです。

他にも、大隈重信が建てた別邸の60メートル先に伊藤博文の本邸があり、わずか10年で別邸を引き払ったという話や、伊藤博文がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と大泣きしたという話が伝わっています。

大隈重信が2度目の内閣総理大臣を辞し、それとともに完全に政界から引退したのはなんと78歳の時でした。歴代総理大臣の中でも最高齢記録として今なお破られていません。

そんなにも長い間日本のために尽くした大隈重信が亡くなったあとの葬儀には、約30万人もの国民が集まったそうで、国民からの支持が絶大だったことがわかります。

負けず嫌いな大隈重信が残した名言から学ぶ【教え】

「幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり、失敗はわが大なる進歩の一部なり」

これは大隈重信が残した言葉ですが、彼の負けず嫌いな性格をよく表しています。

大隈重信は政争に敗れ何度も官職(具体的な職務と責任をもっている地位)から退いています。

ですが、その度に立ち上がり、日本に改革をもたらしました。政治能力などの優秀さはもちろんありましたが、何度失敗してもくじけない不屈の精神こそが、大隈重信が偉大な政治家であったことの大きな要因なのではないでしょうか。

人は失敗する生き物です。今私たちが使用している道具や技術の多くは、失敗を重ねた経験が生かされてできたものです。もし途中で諦めてしまっていたら、今、人類はここまでの便利さを手にすることができなかったでしょう。

「失敗は成功のもと」ということわざがあるように、失敗から何かを学び取れる人こそ成功をたぐり寄せられるのではないでしょうか。お子さまにはどうか、失敗を恐れず何度も挑戦することの大切さを教えてあげてください。

大隈重信のお墓がある『護国寺』に行ってみましょう

徳川5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が生母・桂昌院(けいしょういん)の願いを受けて創建したお寺です。長らく将軍家の武運長久を祈る祈願寺でしたが、現在では檀家によって支えられる寺へと変わり、著名人により次々に建墓されるようになりました。境内には大隈重信をはじめとして三条実美(さんじょうさねとみ)、山県有朋(やまがたありとも)ら明治政府で尽力した人物たちの墓所があります。

アクセスマップ

名 称:護国寺(ごこくじ)
時 間:9時00分~16時00分
休 日:無休
料 金:無料
住 所:東京都文京区大塚5-40-1
電 話:03-3941-0764
※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
河合 敦(かわいあつし)
多摩大学客員教授。歴史研究家。1965年東京都生まれ。多数の歴史書を執筆するとともにテレビやラジオなどのメディア出演多数。
代表的な著書に『日本史は逆さから学べ!』(光文社知恵の森文庫)、『もうすぐ変わる日本史教科書』(KAWADA夢文庫)などがある。

お子さまに関するお悩みを持つ
保護者のかたへ

このようなお悩みを持つ保護者のかたは多いのではないでしょうか?

\そんな保護者のかたにおすすめなのが/
まなびの手帳ロゴ ベネッセ教育情報サイト公式アプリ まなびの手帳

お子さまの年齢、地域、時期別に最適な教育情報を配信しています!

そのほかにも、学習タイプ診断や無料動画など、アプリ限定のサービスが満載です。

ぜひ一度チェックしてみてください。